三叉学舎
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三叉学舎(さんさがくしゃ)は、1868年(明治元年)に蘭学者の箕作秋坪が、江戸の浜町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)にあった津山藩江戸中屋敷の一角を借りて開いた私塾[1]。塾名の「三叉」は、津山藩中屋敷の一方が隅田川に接し、箱崎町の旧土佐藩邸と隅田川支流の水を隔てて相対し、三つの川が同所で接していたことに由来している[2]。三汊塾とも。
概要
[編集]箕作秋坪は明治政府から召し出しを受けたが辞退し、1868年に家督を長男の奎吾に譲り44歳で隠居し、自由な身になって三叉学舎を開いた。なお箕作家は累代の津山藩士であったが、奎吾は幕臣に転じたため、三男の佳吉が津山藩に仕官している。
三叉学舎では、主に漢学や数学、そして英語が教えられた。数百人の子弟が参集し、箕作秋坪の学識が高邁なのはもとより、これを助けた奎吾も17歳にして1年半の外遊を経て同年に帰国したばかりで、イギリス仕込みの人望もあって、大いに人気を博した。幕末にはオランダに代わって、アメリカやイギリスなどの国が台頭し、英語の習得が急務になっていたことから、それにいち早く気づいた秋坪は同年6月に英語を課目に加えた。明治維新期の東京には英学塾が数か所開設されており、その一つが1865年(慶応元年)に福澤諭吉が開いた慶應義塾で、当時、三叉学舎と慶應義塾は「洋学塾の双璧」と称され、いやしくも洋学を志すものは、このいずれかの塾の門を叩いたと言われる[2]。三叉学舎がいつまで存続したかは明らかではないが、1879年 - 1880年(明治12年 - 13年)に在籍していたという塾生の回顧録があり、そのころまでは続いていたと思われる。
著名な在籍者
[編集]- 東郷平八郎 - 元帥海軍大将、侯爵
- 原敬 - 内閣総理大臣、立憲政友会総裁
- 大槻文彦 - 文学博士
- 阪谷芳郎 - 大蔵大臣(第1次桂内閣)、法学博士
- 平沼淑郎 - 大阪市助役、早稲田大学学長、『鶴峯漫談』に三叉学舎について記載を残す。
- 箕作元八 - 箕作秋坪の四男、阪谷芳郎、平沼淑郎と共に「三少年」として評判になった。
脚注
[編集]- ^ “秋坪が開いた三叉学舎”. 津山洋学資料館. 2021年2月24日閲覧。
- ^ a b 治郎丸憲三 1970, p. 146.
参考文献
[編集]- 治郎丸憲三『箕作秋坪とその周辺』箕作秋坪伝記刊行会、1970年。