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三原さと志

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三原 さと志
出生名 小山田晃
生誕 1935年7月3日
出身地 中華民国の旗 中華民国青島市
死没 (2006-09-30) 2006年9月30日(71歳没)
ジャンル ハワイアン
ムード歌謡
職業 歌手
活動期間 1953年 - 2003年
共同作業者 和田弘とマヒナスターズ

三原 さと志(みはら さとし、本名: 小山田 晃(おやまだ あきら)、1935年7月3日 - 2006年9月30日)は、日本の歌手。歌謡コーラスグループ「和田弘とマヒナスターズ」のリードボーカル。元妻の伊都子はポップス歌手田辺靖雄の姉『婦人倶楽部』1966年10月「特集:離婚調停はこうして行われる / 過去ある男性を夫に選んだ私の愛:田辺伊都子 」二人の長男にミュージシャン小山田圭吾、孫は小山田米呂。妹の夫に版画家の中林忠良[1]

プロフィール

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中国青島生まれ。

1953年和田弘らがコーラスグループ「山口銀次とマヒナスターズ」(山口が引退後は1954年に「和田弘とマヒナスターズ」に改称)を結成し、1957年にデビューし、三原は1958年にメンバーに参加[2]。リードボーカルを務め、田代美代子と歌った「愛して愛して愛しちゃったのよ」、「寒い朝」、「お座敷小唄」など(和田弘とマヒナスターズ&田代美代子)をヒットさせた。1960年には松尾和子と歌った「誰よりも君を愛す」(松尾和子&和田 弘とマヒナスターズ)で、第2回日本レコード大賞を受賞した。

松平直樹らのメンバー離脱後も残留し、リードボーカルを務めた。1983年に一度脱退したが、3年後の1986年に復帰した[2]。2001年に和田弘との内紛が原因で再び脱退し、同じく脱退したメンバーらと2002年に「ザ・マヒナスターズ」結成[2]。2003年5月にマハロ☆エコーズ(和田以外のマヒナメンバーで結成、現在のマヒナスターズ)として発売したシングル「ブルースを囁いて」が最後の曲になった。2003年7月に脳梗塞で倒れた後は芸能活動を休止し、復帰を目指しリハビリに励んでいた。2006年9月30日午後6時頃、東京都世田谷区の病院に呼吸不全で死去した[3]。享年71。

和田弘の没後、往年のメンバーだった松平直樹・佐々木敢一らが中心となって「マヒナスターズ」としての活動を続けていたが、このような事情から、それに三原が参加することは叶わなかった。

なお、『ひらけ!ポンキッキ』で「まる・さんかく・しかく」「カンフーレディー」などを作曲したり、『みんなのうた』で「だるまさんがころんだ」を編曲している小山田 暁は別人である。

脚注

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関連項目

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