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三上季直

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
三上季直
時代 安土桃山時代
生誕 不明
死没 文禄年間(1590年代後半)9月4日
別名 与三郎、與三郎(通称)、法慶(法名)
主君 六角義賢豊臣秀吉
氏族 三上氏
父母 三上季次(蔵人、満季)
兄弟 兄2人
神戸斎藤利三の娘)
季正
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三上 季直(みかみ すえなお)は、安土桃山時代武将豊臣秀吉の家臣。通称は与三郎。

略歴

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近江国の出身、生年は不詳。三上氏宇多源氏佐々木庶流であり、代々六角氏(=佐々木氏)の家臣だったが、六角義賢の没落後に、羽柴秀吉に仕えて使番となったという[1]天正年間の初め頃と思われる。

妻(後年、神戸と称す)は斎藤利三の娘で、春日局の『寛政譜』よれば妹にあたるというが、春日局が末の娘であるので、次姉の間違いであろう[2][3]

武家事紀』によれば、季直は金切裂指物使番に列した[4][1]

文禄元年(1592年)、文禄の役で船奉行を命じられた[5]

『松浦古事記』には、文禄3年とあるが、豊臣秀勝(丹波中納言)が登場するので、この頃の6月、長陣の労を癒やす座興として、秀吉が瓜商人に仮装する「瓜畑遊び」で、前田利家徳川家康蒲生氏郷織田長益有馬則頼などが各々で仮装して楽しんだ時、季直は茶屋の亭主を演じた[6]

また、季直に嫁いだ神戸はこの年に季正を産んだが、同じ頃に子を産んだ崇源院(江、豊臣秀勝の未亡人)に仕えることになった[5]

文禄2年(1593年)5月23日、秀吉が名護屋城で明使沈惟敬を迎えたとき、季直と尼子三郎左衛門・新庄直頼長谷川守知の4名は御酌通之衆を務めた[7]

年号は明らかではないが、文禄年間の9月4日[8]、季直は名護屋城駐屯中に病死した。

息子の季正は母親が崇源院に仕えていた縁で、慶長2年(1597年)に(崇源院の再婚相手である)江戸中納言徳川秀忠に6歳で小姓として仕えた[5]。また、秀忠の息女千姫豊臣秀頼に嫁いだときに、神戸は姫君付きの侍女として、季正も従者として従い、大坂城に入った。

大坂落城後、季正は加賀藩主前田利常に仕え[5]、神戸は、広島藩福島正則)に仕えていた柴田源左衛門勝全に嫁いだ長姉が亡くなったので、その後室となった[2]

その後、季正は春日局の縁で、召出されて、3代将軍徳川家光御小姓組の番士となっている[5]

脚注

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  1. ^ a b 高柳 & 松平 1981, p. 238.
  2. ^ a b 田辺密蔵「国立国会図書館デジタルコレクション 春日局ノ親族関係二就イテ」『淀城温故会第1回報告』淀城温故会、1926年、20-22頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/981264/15 国立国会図書館デジタルコレクション 
  3. ^ 春日局のような位の高い姉妹を憚るとき、しばしば系図は序列を変える。
  4. ^ 山鹿素行「国立国会図書館デジタルコレクション 第十四続集」『武家事紀. 上巻』山鹿素行先生全集刊行会〈山鹿素行先生全集〉、1915年、555頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946584/298 国立国会図書館デジタルコレクション 
  5. ^ a b c d e 堀田 1923, p. 195.
  6. ^ 吉村 1934, p. 181-183.
  7. ^ 吉村茂三郎 著「国立国会図書館デジタルコレクション 松浦古事記」、吉村茂三郎 編『松浦叢書 郷土史料』 第1、吉村茂三郎、1934年、174頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1214367/119 国立国会図書館デジタルコレクション 
  8. ^ 堀田 1923, p. 194.

参考文献

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