コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

七尾城 (石見国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
logo
logo
七尾城
島根県
七尾城太鼓檀
七尾城太鼓檀
別名 益田七尾城、益田城
城郭構造 連郭式山城
天守構造 なし
築城主 益田兼高
築城年 鎌倉時代
主な改修者 益田藤兼
主な城主 益田氏
廃城年 慶長5年(1600年
遺構 曲輪跡、堀切
指定文化財 国の史跡
位置 北緯34度40分19.1秒 東経131度51分49.6秒 / 北緯34.671972度 東経131.863778度 / 34.671972; 131.863778
地図
七尾城の位置(島根県内)
七尾城
七尾城
テンプレートを表示
大手門跡(現在は医光寺総門)
水堀跡(現在は七尾公園の花菖蒲園)

七尾城(ななおじょう)は、島根県益田市七尾町にあった日本の城。城跡は、同市三宅町にある三宅御土居跡とともに国の史跡益田氏城館跡」に指定されている[1]

概要

[編集]

七尾城は、石見国国司として鎌倉時代建久年間)に益田荘を本拠とした益田氏の城。歴代の益田氏が居館とした三宅御土居など[注釈 1]の詰めの城として、標高約120メートルの七尾山に築かれた。山頂の本丸跡(標高約118メートル)からは益田平野から日本海までを一望できる。なお、三宅御土居跡とは、益田川を挟み870メートルの距離がある。

発掘調査により、大小40あまりの曲輪空堀土塁井戸跡などが発掘された[2]。さらに、戦国時代後期のものとされる礎石建物や遺物が多く出土しており、毛利元就と対立した頃には益田藤兼と家臣たちが居城とするなど、戦時のみに使われる城郭という従来の山城のイメージを塗り替えるものである[3][4]

歴史

[編集]

築城時期は諸説あるが、通説では建久4年(1193年)に益田兼高が築城したとされる[5][6]。史料に登場するのは南北朝時代で、延元元年(1336年)に南朝方の三隅氏が「北尾崎木戸」(当時の大手口[7])を急襲したことが益田家文書に残る[5]

戦国時代後期、益田氏は陶氏と縁戚関係にあり、大寧寺の変でも陶隆房(後の陶晴賢)に協力していたが、その陶晴賢が天文24年(1555年)の厳島の戦いで毛利元就に敗れると、当時の益田氏当主・益田藤兼は毛利勢の攻撃に備えて城を大改修した[5]。この時、藤兼とその家臣たちは、三宅御土居を出て七尾城内に移住したとされる。その後、藤兼は元就の軍門に降って毛利氏の家臣となり、藤兼の子・益田元祥は三宅御土居に居館を戻した[8]

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元周防国長門国の2ヶ国へ減封されると、益田元祥も毛利氏に従って長門須佐へと移り、七尾城は廃城となった。

現在

[編集]

廃城時に、城の大手門医光寺に移築されて総門としてなって現存しており、「医光寺総門」として1961年昭和36年)に島根県の指定文化財とされた[7]

さらに、昭和40年代には三宅御土居跡と共に島根県の史跡として指定される[4]。そして、2004年平成16年)9月30日、再び三宅御土居とセットで国の史跡「益田氏城館跡」となった[1]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ その他、上久々茂土居(益田市久々茂町)や大谷土居(益田市大谷町)が益田氏代々の居館跡と推定され、時代と共に移転(益田川の上流から下流へ)してきたと考えられている。

出典

[編集]
  1. ^ a b 「益田市所在の国指定文化財・登録文化財一覧」益田市公式HP
  2. ^ 益田氏城館跡 - コトバンク
  3. ^ 住吉神社参道の案内板「益田氏と七尾城」 - 心に刻む益田十景〜七尾山、住吉神社と自然散策道〜(益田オンリーワンクラブ・益田市・益田観光協会)
  4. ^ a b 益田氏城館跡国史跡指定 - 益田歴史を活かしたまちづくりの会
  5. ^ a b c 歴史・文化 - 益田市
  6. ^ 住吉神社参道の案内板「国指定史跡 益田城館跡 七尾城跡」(益田市教育委員会)
  7. ^ a b 医光寺の現地説明板「島根県指定文化財 医光寺総門」(益田市教育委員会)
  8. ^ 益田氏城館跡「三宅御土居」 - 益田市

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]