大尉
大尉(たいい)は、軍隊の階級の一つ。尉官の最上級であり、中尉の上、少佐の下に位置する。
多くの国の海軍では、海軍大尉は2条の線で階級が表される。昭和期の大日本帝国海軍では習慣的に「だいい」と呼称した[1](詳細は#日本軍参照)。
日本
[編集]日本軍
[編集]版籍奉還の後、1870年10月12日(明治3年9月18日)に太政官の沙汰により海陸軍大佐以下の官位相当を定めたときに海陸軍少佐の下、海陸軍中尉の上に海陸軍大尉を置き正七位相当とした[2] [注釈 1] [注釈 2] [注釈 4] [注釈 5]。 1871年2月11日(明治3年12月22日)に各藩の常備兵編制法を定めたときに歩兵大隊の中隊長を大尉と改称し、また砲兵隊長を大尉と改称した[11] [12] [注釈 4]。少尉以上を総称して上等士官といい藩庁が選抜して兵部省へ届出させた[11] [12]。 1871年4月2日(明治4年2月13日)に御親兵を編制して兵部省に管轄させることになり[13]、また同年6月10日(同年4月23日)に東山西海両道に鎮台を置いて兵部省の管轄に属すことになり[14]、兵部省による海陸軍大尉の任官の例が増加する[注釈 6]。 廃藩置県[注釈 7]の後、明治4年8月[注釈 8]の官制等級改定[28]及び兵部省官等改定[29] [注釈 9]や明治5年1月の官等改正[31]及び兵部省中官等表改定など数度の変更があり[29] [注釈 10]、明治5年2月の兵部省廃止及び陸軍省・海軍省設置を経て[33]、明治6年5月8日太政官布達第154号[34] [35]による陸海軍武官官等表改正で軍人の階級呼称として引き続き用いられ[注釈 18]、西欧近代軍の階級呼称の序列に当てはめられることとなった[注釈 19]。
二等兵として任官した軍人が陸軍教導団・陸軍幼年学校・陸軍中央幼年学校・陸軍士官学校・海軍兵学校・陸軍大学校・海軍大学校などの軍学校を経ずに昇進可能な最高階級でもある[注釈 20]。
昭和期の日本海軍では、「大尉」は正式には「たいい」と呼ばれたものの、習慣的には「だいい」とも呼ばれた[1]。
自衛隊
[編集]各自衛隊では、1尉(略称)に相当する。警察では警部に相当し、中央官庁では本省係長又は主任に相当する[45]。
職務は中隊長等の指揮官職の他に副中隊長・運用訓練幹部・上級部隊の班長職や幕僚活動を行う。また、偵察隊及び後方支援隊(連隊)の整備中隊・直接支援中隊では小隊長職に就く場合もあるほか、方面通信群の基地通信中隊等の派遣部隊では派遣隊長職としての活動も行われる。また、航空自衛隊では主に操縦士や小隊長、航空団司令部等の班長、一部は各編成単位部隊長等に補職される。
欧米
[編集]Captainは、もともとはラテン語の「頭」を示す「caput」に由来し、このため部隊規模にかかわらず隊長を意味している。歴史的には中隊の保有者が転じて中隊の指揮官を意味し、傭兵が主体であった時代には募兵も担当(通常は中隊単位で実行されるため)していた[46]。
英語で「Captain キャプテン」(隊長)というのは、そもそもこの階級が傭兵隊(後世の中隊相当)などの長の役職が制度化・階級化されたことに由来する。海軍のみが、他の三軍では中尉に相当する「Lieutenant」になっている[注釈 19]。
- 陸軍 Captain
- 海軍 Lieutenant(通常[lefténant]のように発音する。)
- 海兵隊 Captain
- 空軍 Flight Lieutenant
- 陸軍 Captain
- 海軍 Lieutenant
- 海兵隊 Captain
- 空軍 Captain
- 陸軍 Hauptmann
- 海軍 Kapitänleutnant(カピテーンロイトナント)、海軍言葉ではしばしば Kaleu(カーロイ)と略される。
- 空軍 Hauptmann
- 軍医科 Stabsarzt
- 薬剤科 Stabsapotheker
- 獣医科 Stabsveterinär
- 陸軍 Capitaine
- 海軍 Lieutenant de vaisseau
- 空軍 Capitaine
- 憲兵隊 Capitaine
中国
[編集]大尉とは異なるが、古代中国において軍事を担当する高官の官職名に太尉があった。もちろん現在の軍隊の階級の大尉は、古代日本の律令制を由来とした命名であり、古代中国の官職とは関係がない(官職として無くなっており、そのような高位の官が格下げになったといった歴史は存在しない)[注釈 5]。
なお、現代中国においても1955年から1965年までは尉官の最上位、上尉の上の階級として大尉の階級名が使われていた。1988年以降は尉官の最上位は上尉とされ大尉は用いられていない。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 法令全書では布達ではなく「沙汰」としている[3] [4]。また、第604号はいわゆる法令番号ではなく法令全書の編纂者が整理番号として付与した番号[5]。
- ^ 兵部省は弁官宛に海陸軍大佐以下の官位相当表を上申していたが決定に日数がかかっており、明治3年7月28日に官位相当表の決定を催促をしている[6]。
- ^ 1870年6月1日(明治3年5月3日)には、横須賀・長崎・横浜製鉄場総管細大事務委任を命ぜられた民部権大丞の山尾庸三に対して、思し召しにより海軍はイギリス式によって興すように指示している[7]。
- ^ a b 1870年10月26日(明治3年10月2日)に海軍はイギリス式[注釈 3]、陸軍はフランス式を斟酌して常備兵を編制する方針が示され、各藩の兵も陸軍はフランス式に基づき漸次改正編制させていった[8]。
- ^ a b 大尉は古代中国でも見られる官職名であるが、新式軍隊の階級として使用したのは中国の用例と比べて日本がそれより早いことから、日本が先に新義語として転用した可能性が高いと推測される[9]。 荒木肇は、律令制の官職名が有名無実となっていたことを踏まえて、名と実を一致させる。軍人は中央政府に直属させる。などの意味合いから衛門府・兵衛府から尉官の官名を採用したのではないかと推測している[10]。
- ^ 明治3年11月調べの職員録では、海陸軍の大尉として掲載されているものはまだ一人もいなかったが[15]、明治4年2月22日に春日艦副長の伊東四郎を海軍大尉に任じた[16]。しかし、明治4年4月調べの職員録では、海陸軍の大尉として掲載されているものは一人もいない[17]。 同年5月17日に大坂丸船長の福島弥太六と飛隼丸船長の相浦紀道を海軍大尉に任じ、兼坂熊四郎を海軍大尉に任じた。このとき大阪丸船長の福島弥太六に甲鉄艦長代を命じる辞令を別に出しており、海軍大尉の階級を船長や艦長代などの職務を区別している[18]。 同月19日に日進艦副長の岡廉之助を海軍大尉に任じた。このとき岡廉之助に甲鉄艦乗組を命じる辞令を別に出しており、海軍大尉の階級と軍艦乗組の職務を区別している[19]。 明治4年5月25日に白井龍吉を陸軍大尉に任じた[20]。このとき同人に第2連隊第1大隊小隊隊長を命じ、ただし当分6番小隊兼勤とする辞令を別に出しており、陸軍大尉の階級と小隊隊長の職を区別している[21] [22]。同日に堀常之助を陸軍大尉に任じた。このとき同人に第3連隊第1大隊副官を命じる辞令を別に出しており陸軍大尉の階級と大隊副官の職を区別している[23]。なお、明治4年6月調べの職員録では、海陸軍の大尉は調査されておらず掲載されていない[24]。
- ^ a b c 明治17年陸軍省稟定により、明治4年の廃藩置県の際に旧各藩より召集した兵員の内、大尉心得等を命ぜられた者の服役年計算方については、大尉心得・大尉勤務・准大尉等は官名ではないけれども実際に武官の職を奉じていた者であって、その名が異なっているとしてもその実本官の職務と同一であるので、その勤仕の年月は服役年期に実入することとしている[25]。
- ^ 陸軍では服役年の始期は明治4年8月を以って始期とするため、その以前より勤仕の者であったとしても総て同月を始期とした[26]。 海軍では服役年の始期について、准士官以上は明治4年8月以前は服役年に算入しない[27]。
- ^ 明治4年12月調べの職員録によれば海軍大尉として30名、陸軍大尉として102名が掲載されている[30]。
- ^ これまでの順席では海軍を上、陸軍を下にしていたが、明治5年1月20日の官等表から陸軍を上、海軍を下に変更した[32]。
- ^ 当時の官制に規定がないことに拘らず現に明治4年7月以前に一時賜金、明治4年8月以後は恩給年に通算した先例もある軍人の名称の内、大尉に相当するものには次のようなものがある(個人名は省略)[38]。
- 明治23年陸軍恩給令により恩給を受けている者の内
- 大尉代:退役時は砲兵大尉
- 大尉准席:退役時は砲兵中佐
- 明治24年軍人恩給法により恩給を受けている者の内
- 二等士官:退役時は歩兵中佐
- 大尉准席:退役時は歩兵中佐
- 大尉心得:退役時は歩兵少佐
- 大尉心得:退役時は歩兵少佐
- 大尉心得:退役時は歩兵大佐
- 明治23年陸軍恩給令により恩給を受けている者の内
- ^ 大尉心得はその本官の職を取る。本官とは、大尉は中隊長の職を取る[39]。
- ^ 准大尉並び職務は前項の大尉心得に等しいもの[39]。
- ^ 准席はすべてその官相当の職を取っていたもの。即ち大尉は中隊長[39]。
- ^ 軍監は監察の職を取っていたもの[39]。大尉相当[39]。
- ^ 二等士官は大尉相当であってその職を取っていたもの[39]。
- ^ 准二等士官は前項の二等士官に等しいものであってその職を取っていたもの[39]。
- ^ 1873年(明治6年)5月以前に用いられた各種名義の軍人について、当時の官制に於いて規定した明文がないものの、例えば心得、准官のような名義の者であっても当時は戦時に際して上司の命令を以て実際に軍隊・官衙等に奉職しその任務を奉じたことから、明治25年5月に陸軍大臣の請議による閣議に於いてこれらを軍人と認定しており[36] [37] [注釈 11]、これらのうち大尉に相当するものには明治3・4・5年の頃の大尉心得[注釈 12] [注釈 7]、明治2・3・4年の頃の准大尉並び職務[注釈 13] [注釈 7]、明治2・3・4年の頃の大尉准席[注釈 14]、明治元年以来、明治4年頃の軍監心得[40] [注釈 15]、明治元年以降、明治4年頃までの二等士官[注釈 16]・准二等士官[注釈 17]などがある[40] [39] [37]。 明治5年5月調べの官員全書(陸軍省武官)には陸軍大尉に任ぜられた者の次に陸軍大尉准席や陸軍大尉心得を命ぜれた者が掲載されている[41]。なお、明治5年5月調べの官員全書(海軍省)には海軍大尉の准席や心得は現れない[42]。
- ^ a b 1872年2月20日(明治5年1月12日)に兵部省が定めた外国と国内の海軍武官の呼称によるとシニヲル・リューテナントを大尉に対応させている[43][44]。
- ^ 二等兵から始まる徴兵軍人でも功績を認められ、上官からの勧めで幹部養成学校に入校した場合はこの限りではなく、少佐以上の階級に昇進した例も多い。例として、武藤信義は二等卒(二等兵の旧称)から始まり、陸軍教導団・陸軍士官学校・陸軍大学校と進み、最終的には元帥にまで上り詰めている。
出典
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