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一柳直敬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
一柳 直敬
時代 江戸時代後期
生誕 寛政4年(1792年)[1]
死没 安政5年9月17日(1858年10月23日)[1]
別名 順之助[2][1]
戒名 智徳院殿勇健日輝大居士[1]
墓所 東京都杉並区の妙祝寺[1]
官位 従五位下 近江守[1]
幕府 江戸幕府
氏族 一柳氏
父母 父:一柳直郷
直方
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一柳 直敬(ひとつやなぎ なおよし[3])は、江戸時代旗本旗本寄合席一柳家(播磨高木陣屋5000石)の当主。能書家としても知られた。

経歴

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一柳直郷の三男として生まれるが、兄2人が夭折したため家督を継ぐ[2]。篤学の人であり、能書家として知られたという[4]

従五位下近江守に叙任された[3][注釈 1]。文政10年(1827年)時点では甲府勤番支配を務めている(相役は板倉勝昇[5]

文政12年(1829年)、甲斐国田中陣屋(現在の山梨県山梨市一町田中、田安家の陣屋[6])に日吉神社神主が撰した「節婦之碑」の碑文を書した[7][8]。この碑は享保13年(1728年)の日川の洪水の際、老いた姑を背負って避難させ、次いで寝たきりの夫を背負って避難しようとして濁流に流された「栗」という女性を顕彰するものである[7]。この石碑は1907年明治40年)の大水害で流されてしまったが[7]1930年昭和5年)に山梨県女子師範学校校長久米卯之彦が「女子教育の素材」として碑文の原文を模して山梨高等女学校(現在の山梨県立山梨高等学校)に建てたものが現存している[7]

昭和初期に一柳一族の事績をまとめた一柳貞吉『一柳家史紀要』によれば、「臣下を薫陶し、領地を開拓し、水利を治する」などの功績があったという[3]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『寛政譜』に掲載された一柳直照から一柳直郷までの旗本寄合席一柳家当主で、叙任を受けた人物はいない。

出典

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  1. ^ a b c d e f 一柳貞吉 1933, p. 36.
  2. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第六百三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.158、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.158。
  3. ^ a b c 一柳貞吉 1933, p. 31.
  4. ^ 一柳貞吉 1933, p. 32.
  5. ^ 藤井明広 2019, p. 80.
  6. ^ 【市指定史跡】田安陣屋跡”. 山梨市. 2021年9月14日閲覧。
  7. ^ a b c d 君は節婦の碑を知っていますか”. やまかいの四季 No.87. 山梨高校理科教室 (1996年4月22日). 2021年9月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年3月20日閲覧。
  8. ^ 節婦之碑 拓本”. ヤフオク. 2021年9月14日閲覧。[信頼性要検証]

参考文献

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  • 寛政重修諸家譜』巻第六百三
  • 一柳貞吉一柳家史紀要』1933年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1192151 
  • 藤井明広「文政期における駿府目付の職務実態」『立正大学文学部論叢』第142号、2019年。 NAID 120007032106