ヴラジーミル・ネミロヴィチ=ダンチェンコ
ヴラジーミル・イワーノヴィチ・ネミロヴィチ=ダンチェンコ | |
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基本情報 | |
生誕 | 1858年12月23日 |
出身地 | ロシア帝国、オズルゲティ |
死没 | 1943年4月25日(84歳没) |
ジャンル | 演劇 |
職業 | 演劇 |
ヴラジーミル・イワーノヴィチ・ネミロヴィチ=ダンチェンコ(ロシア語: Влади́мир Ива́нович Немиро́вич-Да́нченко, ラテン文字転写: Vladimir Ivanovich Nemirovich-Danchenko 、1858年12月23日(ユリウス暦12月11日)- 1943年4月25日)は、オズルゲティ出身のロシア、ソビエト連邦の演劇人。劇作家兼演劇指導者。国民演劇の正統派とみなされていた。
経歴
[編集]1858年、オズルゲティでウクライナ-アルメニア系の家系の家に生まれる。父はコーカサスへ赴任していたロシア帝国陸軍士官であった。 チフリスギムナジウムで学び、1876年に銀メダルを得て卒業した。そしてモスクワ大学物理・数学学部に入学し、その後法律学部に移ったが、1879年に大学を退学した。 1877年に劇評を雑誌『ブディリニク』(Budilnik、目覚まし時計の意)、『アルティスト』、『ストゥレコーザ』(Strekoza、トンボの意)に発表し始めた。 1881年には最初の戯曲『野ばら』(Shipovnik)を書き、翌年ミハイロフスキー劇場で上演された。同年には処女小説『郵便駅にて』を発表した。 1891年から1901年にかけてモスクワ音楽愛好協会付属学校で教鞭を取る。1894年、ネミロヴィチ=ダンチェンコの『金銭』の公演の際、ロシア演劇史上初の衣装付き舞台稽古を行う[1]。1896年「人生の価値」(マールイ劇場で定期的上演) でグリボエードフ賞を受賞。しかしチェーホフのかもめが賞をとるべきと抵抗した。
1897年にモスクワ芸術座をスタニスラフスキーとともに創設した。両者の関係は、「文学的な拒否権はネミロヴィチ=ダンチェンコに、芸術的な拒否権はスタニスラフスキーに属する」(スタニスラフスキー自伝)というものであった。1936年著書『過去から』(邦訳題『モスクワ藝術座の回想』)を上梓した[注釈 1]。ゴーリキーに助言し『人生のどん底で』の題を『どん底На дне』の2語に短縮させた[注釈 2]。
作品
[編集]- 『幸福者』
- 『夢のなかで』
参考文献
[編集]- スタニスラフスキー著『芸術におけるわが生涯』、岩波文庫、2008年
- ジーン・ベネディティ著『スタニスラフスキー入門』松本永実子訳、而立書房、2008年
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ ニェミロヴィッチ・ダンチェンコ著『モスクワ藝術座の回想』内山敏訳、テアトロ社、1939年 p.104