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ヴェルサイユ・サンルイ大聖堂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴェルサイユ・サンルイ大聖堂
サンルイ大聖堂正面
情報
旧名称 Église Saint-Louis
用途 ヴェルサイユ司教区の司教座教会
設計者 ジャック・アルドゥアン=マンサール・ド・サゴンヌ
構造形式 バジリカ、ロココ様式のドーム屋根
着工 1742
竣工 1754
所在地 78000
4 place Saint-Louis, Versailles, France フランスヴェルサイユ
座標 北緯48度47分54秒 東経2度07分27秒 / 北緯48.79833度 東経2.12417度 / 48.79833; 2.12417 (ヴェルサイユ・サンルイ大聖堂)座標: 北緯48度47分54秒 東経2度07分27秒 / 北緯48.79833度 東経2.12417度 / 48.79833; 2.12417 (ヴェルサイユ・サンルイ大聖堂)
文化財 1906
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ヴェルサイユ・サンルイ大聖堂(ヴェルサイユ・サンルイだいせいどう、cathédrale Saint-Louis de Versailles)またはサン・ルイ・ド・ヴェルサイユ大聖堂は、ルイ15世の命によりジャック・アルドゥアン=マンサール・ド・サゴンヌフランス語版ジュール・アルドゥアン=マンサールの孫)が建立した、ヴェルサイユ司教座大聖堂である。

建設は1742年から1754年までかかり、1797年に大聖堂となる。

2011年以降、聖王ルイ聖遺物を安置している。最寄り駅はヴェルサイユ=シャトー駅

歴史

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建設の背景

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ヴェルサイユ宮殿ルイ14世により改増築されるまで、ヴェルサイユの教会は、現在のサン・ルイ大聖堂近くにあった、小規模なサン・ジュリアン教会のみであった。

1672〜73年、街を発展させるにあたり、ルイ14世はサン・ジュリアン教会を取り壊すことにし、代わりに同じ聖人に捧げるより大きな教会を、開発中の新市街に建てた[1]

1682年、ヴェルサイユ宮殿に宮廷が移り、政治の中心となる。

1684〜86年、宮廷人と新市街の住人のため、さらに大きな教会が必要になり、1672年に建てたサン・ジュリアン教会の跡に、ノートルダム教会を建設。

ノートルダム教会は宮殿を挟んで反対側の旧市街からは通いにくく、旧市街にも同様の教会が必要になった。

1725−27年、ルイ15世により、旧市街に、ノートルダムに行く代わりに参拝できる、聖ルイに捧げられた礼拝堂が建てられる。建物は小規模で、ノートルダムの支部のような位置付けであった[2]

建設

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1730年、人口増加により、パリ大司教シャルル・ヴァンティミーユにより、礼拝堂とその周辺が、ノートルダム教会地区から独立したサン・ルイ教区として認可される。

当時ルイ15世の第一建築家ロベール・ド・コット[3]が、礼拝堂の脇に建てる予定の教会の設計を行うが、おそらく財政面の問題により、建設に至らず[4]

1735年、ロベール・ド・コットが死去。ルイ15世は、コットの親戚筋であり、ジュール・アルドゥアン=マンサールの孫でもある、ジャック・アルドゥアン=マンサール・ド・サゴンヌに設計の引き継ぎを依頼する。

1743年、建設開始。ルイ15世が最初の礎石を置く。

1754年8月、完成。同23日にルイ15世の孫、後のルイ16世が誕生したため、8月24日の開堂式は王族不在のまま行われ、8月25日、聖ルイに捧げる最初のミサから王族が参列した。

1755年、ルイ15世から、王妃マリー・レクザンスカ、王太子妃マリー=ジョゼフ・ド・サクス、およびルイ15世の4人の王女たち(アデライードヴィクトワールソフィールイーズ)の教会支援のしるしとして、6体の鐘が教会に贈られる[5]

1760年、先にあったサン・ルイ礼拝堂が取り壊され、跡地に司祭館が建設[6]される。運営はサン・ヴァンサン・ド・ポール(fr)修道会。

同年、王妃マリー・レクザンスカが、クワイヤに吊るすクリスタルの6基のシャンデリアを寄贈。

1761年、ルーブル美術館内で行われた展覧会、サロン・ド・ルーブルにおいて、フランソワ・ブーシェなどの画家が、サン・ルイ教会のための絵画を出品。作品はその後教会内の礼拝堂に置かれる。

1764年、教会が建築家ルイ=フランソワ・トルアール(fr)と彫刻家オーギュスタン・パジュー(fr)に、礼拝堂の増築とその装飾を依頼。

当初は、宮殿で亡くなった王族の遺体が、埋葬まで安置されるのに使われていたが、1824年より、摂理礼拝堂(La Providence)と呼称されて現在に至る。

革命前後

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1789年5月4日、三部会開催を宣言するミサが、パリ大司教により、ルイ16世臨席のもと行われる。ミサ中、議員として参列していたド・ラ・ファール司教(fr)は、説教台から、宮廷の窮状を強く非難した[4]

同年6月22日、20日に王族の球戯場で宣言されたいわゆるテニスコートの誓いの2日後、当日欠席した面々のために、サン・ルイ教会で再度宣誓が行われる。同年12月、議会において、イル=ド=フランスを5つの司教区に分割し、セーヌ=エ=オワーズ司教区の司教座をヴェルサイユに置くことが決まる。

1790年、神ではなく憲法に従うという、聖職者民事基本法を受け入れた、セーヌ=エ=オワーズ司教区の司教ジャン=ジュリアン・アヴォワーヌ(fr)により、ノートルダム教会が司教座教会(大聖堂)に指定される。

1792年、聖職者民事基本法に反対していた助祭、ジャン=アンリ・グルイエルが、滞在中のパリにて他の聖職者とともに虐殺される[7]。迫害が激しくなり、同年末から、サン・ルイ教会は閉鎖[8]

1797年、アヴォワーヌが1793年に死去後、セーヌ=エ=オワーズ司教区議長であったオーギュスタン=ジャン=シャルル・クレモン(fr)が、聖職者民事基本法に準じる2代目の司教になる。ノートルダム教会が、革命派による被害をより多く被っていたため、サン・ルイ教会を大聖堂に指定。

ナポレオン1世治下

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1801年、政教条約ナポレオン1世とローマ教皇ピウス7世の間で成立。フランス国家とローマカトリック教会が和解する。ヴェルサイユ司教座の機能が、サン・ルイ大聖堂の司祭館内にできる。

1802年、ルイ・シャリエ=ド=ラ=ロッシュ(fr)がサン・ルイ大聖堂にて司教に叙階され、ヴェルサイユ司教区の最初の司教となる。

1805年1月、前年12月のナポレオンの戴冠式のためにパリに来て翌年4月までの予定で滞在していた教皇ピウス7世がヴェルサイユを訪れ、サン・ルイ大聖堂を祝別。王族の旧居の見学を望んでいた教皇は、ヴェルサイユ宮殿を見学し、その後司教座を訪問。

19世紀後半から21世紀

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シャルル10世ルイ・フィリップが、ボワズリー(木彫レリーフ)部分、告解室や祭壇などの修復に尽力した[4]

1840年から1848年、1832年のコレラの蔓延に対する庇護への感謝のしるしとして、聖母の礼拝堂が改築される。

1843年、3代目司教ブランカール・ド・バイユール(fr)により、サン・ルイ大聖堂の聖別式が行われる。

1906年、フランスの歴史的建造物に指定[9]

1853年から56年、礼拝堂やクワイヤ上部にあった透明の窓が、多彩色のステンドグラスに変更。

2000−02年、クワイヤの改装が検討され、実現されなかったロベール・ド・コットの案をもとに、建築家ブリュノ・ショフェール=イヴァール[10]が楕円形の台を、その上に彫刻家フィリップ・ケプラン(fr)が制作した祭壇が設置される。

建築の特徴

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ロベール・ド・コットの設計にて、ルイ15世による先代(聖ルイ)への深い敬意が現れ、かつ既にあったノートルダム教会と対になる、広いファサードを持つ教会が考えられていた[11]

正面、地階は新古典様式。

柱頭に装飾のないドーリア式、上階に装飾を持つコリント式の、合計16の柱を構え、左右に鐘楼を持つ。中央のペディメントには王家の紋章、その上に王冠、左右に翼のレリーフ。

クワイヤ上部にロココ様式の屋根(高さ65メートル)、後陣奥の円形の聖母礼拝堂もドーム式の屋根を持つ。身廊(全長93メートル、高さ 23メートル)の左右に側廊を持つ伝統的な様式。翼廊は、それぞれの奥に半円形の礼拝堂を持つ。

左(東)側に、増築された摂理礼拝堂が長方形にのびる。18世紀末の新古典様式。サンルイ広場側に向かって入り口があるが、堂内の翼廊脇の礼拝堂からも入ることができる。

オルガンの由来

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オルガンは、建築正面上階の裏側に設置されている。

設置されているバルコニーの枠中央には、SL(サン・ルイ)のイニシャルのレリーフがある。

1759年、ルイ15世から、王のオルガン製造職人であったルイ=アレクサンドル・クリコ[12]に発注され、彼の没後、1761年に、息子のフランソワ=アンリ・クリコ(fr)により完成。

高さ12.14メートル、幅10.91メートル、幅5メートル。3つの手鍵盤と1つの足鍵盤、大小合わせて3,000以上のパイプを持つ[13]

1761年の諸聖人の日の前日に聖別。1762年にルイ15世の臨席のもと演奏される。その後、三部会開会宣言のミサ、司教座教会としての司教叙階、教皇ピウス7世の訪問などの歴史的場面にて演奏される。

フランス革命により教会が破壊行為に遭っている時期、国立博物館の音楽と楽器部門のキューレター、ジャン=ルイ・ベッシュの力で破壊を免れた[14]

1906年、大聖堂の建築と同時期に、木彫の外装が、固定設置物(immeuble)としてフランスの歴史的モニュメントに指定[15]

1961年、楽器部分(鍵盤、パイプなど)が、物品(objet)としてフランスの歴史的モニュメントに指定[16]

脚注

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  1. ^ Pierre Verlet, Le Château de Versailles, Fayard, 1988, 731 p. (ISBN 2-213-01600-3)p. 117
  2. ^ Pierre Verlet, Le Château de Versailles, Fayard, 1988, 731 p. (ISBN 2-213-01600-3)p. 342
  3. ^ ヴェルサイユ宮殿の公式サイトの人物紹介;http://jp.chateauversailles.fr/jp/history/versailles-during-the-centuries/the-palace-construction/robert-de-cotte-1656-1735
  4. ^ a b c サンルイ大聖堂公式サイトより:http://cathedrale-versailles.org/?q=histoire-et-patrimoine
  5. ^ Nicolas Jaquet, Versailles Secret et Insolite, France, Parigramme, 2011, 203 p. (ISBN 978-2-84096-664-7)p. 28
  6. ^ 司祭館は、現在も大聖堂の西側(正面左)にあり、大聖堂関連の事務棟となっている。
  7. ^ ジャン=アンリ・グリュイエール(Jean Hanri Gruyer) は、フランスのフランシュ=コンテ地方出身の、サン・ヴァンサン・ド・ポール修道会の助祭であり、反革命派で、聖職者民事基本法に反対していた。1791年にヴェルサイユを離れて出身地に戻った後、1792年8月にパリのサン・フィルマン神学校に滞在していたところを、他の聖職者と共に革命派に捕まり、同年9月に虐殺された。この殉教に鑑み、1926年に列福された。大聖堂内に記念プレートがある
  8. ^ 教会が閉鎖後も、反革命派の司祭たちは、市内の住宅内で密かに洗礼や結婚式を行い、記録を続けた。http://cathedrale-versailles.org/?q=histoire-et-patrimoine
  9. ^ "Notice no PA00087667". base Mérimée, ministère français de la Culture. {{cite web}}: Cite webテンプレートでは|access-date=引数が必須です。 (説明)
  10. ^ ブリュノ・ショフェール=イヴァールは、国内外の文化財の調査修復を行う建築家。http://academiedeversailles.com/detail.php?categorie_id=1&scategorie_id=28&contact_id=28
  11. ^ La cathédrale Saint-Louis de Versailles, 2004, cathédrale Saint-Louis de Versailles, p.9
  12. ^ クリコ(Clicquot)家はルイ14世の時代から続く、王族のオルガン製造職人一家。ルイ=アレクサンドルの父ロベールは、ルイ14世下の財務総監コルベールの従姉妹と結婚している。両家はともにランス出身である。
  13. ^ サンルイ大聖堂の仏語ウィキペディアより。
  14. ^ La cathédrale de Saint-Louis de Versailles, 2004, cathédrale de Saint-Louis de Versailles, p.53
  15. ^ http://www.culture.gouv.fr/public/mistral/palissy_fr?ACTION=CHERCHER&FIELD_1=REF&VALUE_1=PM78000801
  16. ^ http://www.culture.gouv.fr/public/mistral/palissy_fr?ACTION=CHERCHER&FIELD_1=REF&VALUE_1=PM78000745

外部リンク

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