ヴェイッラーネの戦い
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ヴェイッラーネの戦い(ヴェイッラーネのたたかい、英語: Battle of Veillane)、またはアヴィッリアーナの戦い(アヴィッリアーナのたたかい、英語: Battle of Avigliana)は1630年7月10日、アンリ2世・ド・モンモランシー率いるフランス軍とカルロ・ドーリア率いるスペイン軍が戦い、フランスが決定的な勝利を収めた戦闘[1][2]。
背景
[編集]マントヴァ継承戦争中、リシュリュー枢機卿はマントヴァの継承に介入するためにモンモランシー率いるフランス軍にサヴォイアを侵攻させた[2]。これは開戦事由だったが、実際はサヴォイア公カルロ・エマヌエーレ1世をハプスブルク家(スペイン王フェリペ4世と神聖ローマ皇帝フェルディナント2世)との同盟から離脱させて、イタリアとドイツにおけるハプスブルク家領、およびスペイン領ネーデルラントの連絡を切断するためだった[3]。
戦闘
[編集]フランス軍の指揮官モンモランシー将軍は溝を越える突撃で憲兵隊を率い、自らの手でドーリアを捕虜にした。彼はスペイン軍が撤退するまで一介の兵士として戦ったという[4]。スペイン軍は死傷者約700、捕虜600を出した[2]。
その後
[編集]この勝利はサヴォイアとその同盟者が1週間後にマントヴァを占領するのを防げなかった[2]が、カッサールの包囲を解かせ、サルッツォを占領する結果をもたらした。この功績でモンモランシーは同年フランス元帥に叙された[4][5]。
このピエモンテ戦役の結果はフランスの戦略上の敗北をひっくり返し、1631年に締結されたケラスコ条約はフランスに有利なものとなった[3]。
脚注
[編集]- ^ "On July 10, 1630, in the Piedmont campaign, he won the crucial victory of Veillane" (Burckhardt 1970, p. 73).
- ^ a b c d Jaques 2007, p. 85.
- ^ a b Tucker 2009, p. 579.
- ^ a b Traill 1858, p. 520.
- ^ Chisholm 1911, p. 787.
参考文献
[編集]- Burckhardt, Carl Jacob (1970). Richelieu and his age. 2. Allen & Unwin
- Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Montmorency". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 11 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 787.
- Jaques, Tony (2007), Dictionary of Battles and Sieges: A-E, Dictionary of Battles and Sieges: A Guide to 8,500 Battles from Antiquity Through the Twenty-first Century, 1, Greenwood Publishing Group, p. 85, ISBN 978-0-313-33537-2
- Tucker, Spencer (2009), A global chronology of conflict: from the ancient world to the modern Middle East, 2 (illustrated ed.), ABC-CLIO, pp. 579, 587, ISBN 978-1-85109-667-1
- この記事には現在パブリックドメインとなったTraill, Thomas Stewart, ed. (1858). "Montmorency, Henri II". The Encyclopaedia Britannica: or, Dictionary of arts, sciences and general literature. Vol. 15 (8 ed.). A. and C. Black. p. 520.からの記述が含まれています。