コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ヴィーシュホロド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴィーシュホロド
Вишгород (ウクライナ語)
座標 : 北緯50度35分14秒 東経30度29分20秒 / 北緯50.58722度 東経30.48889度 / 50.58722; 30.48889
歴史
建設 946年
都市型集落 1962年
市制施行 1968年
行政
 ウクライナ
  キーウ州の旗 キーウ州
 ラヨン(地区) ヴィーシュホロド地区[1]
 フロマーダ ヴィーシュホロド・フロマーダ[1]
 市 ヴィーシュホロド
市長 Решетняк Віктор Олександрович
地理
面積  
  市域 8,7 km2
人口
人口 (2021年現在)
  市域 32,396人
  備考 推計[2]
その他
等時帯 東ヨーロッパ時間 (UTC+2)
夏時間 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3)
郵便番号 07300—07304
市外局番 +380-4596
位置図
ヴィーシュホロドの位置(ウクライナ内)
ヴィーシュホロド
ヴィーシュホロド (ウクライナ)
公式ウェブサイト : http://xn--b1acdo5aan5d.com.ua/

ヴィーシュホロドウクライナ語: Вишгород, ラテン文字転写: Vyshhorod)は、ウクライナキーウ州ヴィーシュホロド地区ウクライナ語版英語版にある市である[1]。同地区の中心地であり、人口は32,396人(2021年推計)[2]1962年都市型集落1968年に市となった。歴史学的文献にはヴィシゴロド、ヴィシェゴロド等と表記しているものもある。

地理

[編集]

ドニエプル川の右岸・キーウ貯水池(キーウ湖)の南端に接する。キーウ市と南で隣接している。

歴史

[編集]

中世

[編集]

ルーシの年代記の中に初めてヴィーシュホロドの名が挙がるのは946年のことである。また、ビザンツ皇帝コンスタンティノス7世905年? - 959年)も、ヴィーシュホロドはキーウからドニエプル川を16ベルスタ遡上したところにあるという主旨の記述を残している。キエフルーシ時代のヴィーシュホロドは高い丘の上に位置し、キーウの北方に対する前哨として要塞化されていた。『原初年代記』の中には、946年に聖オリガの領地であったこと[3]980年ごろにはウラジーミル1世の300人の側室がいたこと[4]1078年からヤロポルク・イジャスラヴィチ(イジャスラフ1世の子)の領地となったこと[5] などの記述がある。

1155年ユーリー・ドルゴルーキーは、ヴィーシュホロドに息子のアンドレイ・ユリエヴィチを置いたが、アンドレイは慣れ親しんだウラジーミル・クリャージマへと去った。その際にヴィーシュホロドの[注釈 1]聖母イコンを運び出した。これが今日の有名なイコン、ウラジーミルの聖母である。また、ヴィーシュホロドでは少なからぬ数の攻防戦が行われた。例えば1093年1136年1146年の三度、ポロヴェツ族が街を包囲している。

1240年モンゴルのルーシ侵攻によって勃発したキエフの戦いの際に、ヴィーシュホロドはキーウとともに戦禍を被った。ヴィーシュホロドは破壊され、以降、年代記から記述が消えることとなった。石造りの建築物の残骸や、高い土塁、クルガンなどが、往時のヴィーシュホロドを偲ばせるのみであったという。1523年の修道院の記録の中に、再びヴィーシュホロドの名が現れるが、そこでは貧しく人口の希薄な村落として記述されている。

近代・現代

[編集]

史跡・記念碑

[編集]

姉妹都市

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ アレクサンドル・ダニロフ『ロシアの歴史(上)古代から19世紀前半まで』(96頁)には、アンドレイが持ち帰ったのは「キエフの聖物」とある。

出典

[編集]
  1. ^ a b c місто Вишгород - Київська область” (ウクライナ語). decentralization.gov.ua. 2022年6月15日閲覧。
  2. ^ a b Чисельність наявного населення України на 1 січня” (PDF) (ウクライナ語). Державна служба статистики України. p. 26 (2021年). 2022年6月15日閲覧。
  3. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』(68頁)
  4. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』(93頁)
  5. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』(221頁)
  6. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』(481頁)

参考文献

[編集]