ヴィクトル・アルブレヒト・フォン・ラティボル
ヴィクトル・アルブレヒト・フォン・ラティボル Viktor Albrecht von Ratibor und Corvey | |
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ラティボル公世子ヴィクトルの顕彰記念カード、1939年 | |
出生 |
1916年2月12日 ラウデン(現ポーランド領シロンスク県ルディ) |
死去 |
1939年9月18日(23歳没) ポチェハ(現ポーランド領ウッチ県) |
家名 | ホーエンローエ=シリングスフュルスト家 |
父親 | ラティボル公ヴィクトル3世 |
母親 | エリーザベト・ツー・エッティンゲン=エッティンゲン・ウント・エッティンゲン=シュピールベルク |
ヴィクトル(4世)・フォン・ラティボル・ウント・コルヴァイ(Viktor (IV.) Prinz von Ratibor und Corvey, 1916年2月12日 - 1939年9月18日)は、ドイツの旧諸侯ホーエンローエ=シリングスフュルスト家の一員で、シュレージエンのラティボル公爵家の家督相続人。全名はヴィクトル・アルブレヒト・ヨハンネス・ヨーゼフ・ミヒャエル・マリア(Viktor Albrecht Johannes Josef Michael Maria)。
生涯
[編集]ラティボル公爵およびコルヴァイ侯ヴィクトル3世と、その妻でエッティンゲン=エッティンゲンおよびエッティンゲン=シュピールベルク侯フランツ・アルブレヒトの娘であるエリーザベト(1886年 - 1976年)の間の第4子、長男として生まれた。父が1923年に公爵家の当主になるに伴い、その継嗣として公世子(Erbprinz)の称号で呼ばれた。
1939年のドイツ軍によるポーランド侵攻作戦に、国防軍第1軽機甲師団(1. leichten Division, 1939年10月より第6戦車師団(6. Panzer-Division)に改称)第11戦車部隊所属の少尉として参加した。
侵攻作戦が始まって間もない9月18日、ウッチ県の小村ポチェハにおいて、LT-35軽戦車3台で走行中に、ポーランド軍のTKS豆戦車1台と戦闘になった。TKSに搭乗していたのはヴィエルコポルスカ騎兵師団所属の戦車エース、ロマン・エドムント・オルリク(Roman Edmund Orlik, 1918年 - 1982年)であり、ヴィクトルの率いる小隊の戦車3台は全て破壊された。ヴィクトルは他の乗員たちとともに全身に火傷を負い、数分後に息絶えた。
家督は、親戚のメッテルニヒ=ヴィンネブルク侯爵家に養子に入っていた実弟フランツ・アルブレヒトが継ぐことになった。