ヴァルラム4世 (リンブルフ公)
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ヴァルラム4世 Walram IV | |
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リンブルフ公 | |
ヴァルラム4世のシール | |
在位 | 1247年 - 1279年 |
死去 |
1279年10月14日 |
配偶者 | ユーディト・フォン・クレーフェ |
クニグンデ・フォン・ブランデンブルク | |
子女 | イルムガルト |
家名 | リンブルフ家 |
父親 | リンブルフ公ハインリヒ4世 |
母親 | イルムガルト・フォン・ベルク |
ヴァルラム4世(Walram IV, ? - 1279年10月14日)は、リンブルフ公(在位:1247年 - 1279年)。リンブルフ公ハインリヒ4世とイルムガルト・フォン・ベルクの次男[1]。
生涯
[編集]ヴァルラム4世は空位時代の神聖ローマ帝国において政治的に重要な役割を果たした。この時期に、ヴァルラムはホーエンシュタウフェン家に対する支持をやめ、ドイツ王選挙においてホラント伯ウィレム2世を支持した。ヴァルラムはイングランド王ヘンリー3世の宮廷に大使として派遣され、ホラント伯ウィレム2世の死後、ヴァルラムはローマ王選挙においてコーンウォール伯リチャードを支持した。さらに、ヴァルラムは1272年にボヘミア王オタカル2世、のちルドルフ・フォン・ハプスブルクにローマ王位につくことを提案した貴族の一人であった。
1252年、ヴァルラムはフランドル継承戦争に介入し、エノー伯ジャン2世側について戦った。1258年以降、ヴァルラムはブラバント公ジャン1世と対立したが、終結後は60年間ブラバン公と良好な関係が継続した。また、ケルン市民と対立していたケルン大司教の問題にも介入した。
1279年のヴァルラムの死後、リンブルフ継承戦争が勃発した。
結婚と子女
[編集]最初に、クレーフェ伯ディートリヒ4世の娘ユーディトと結婚し、1女をもうけた。
ユーディトの死後の1278年に、ブランデンブルク辺境伯オットー3世とベアトリクス・フォン・ベーメン(ボジェナ・チェスカー)の娘クニグンデと再婚した[4][5][6]。ケルン大司教ジークフリート・フォン・ヴェスターブルクによると、2人の間に子供はいなかったという。
脚注
[編集]- ^ S.P. Ernst, Histoire de Limbourg, VI, Luik, 1847, nr. CLII, p. 218; T.J. Lacomblet (ed.), Urkundenbuch für die Geschichte des Niederrheins, II, Düsseldorf, 1846, nr. 290, p. 150
- ^ Het Historisch Genootschap (ed.), Codex diplomaticus Neerlandicus, Utrecht, 1860, p. 69, p. 188
- ^ Jahn, Ralph G. & Johanna Maria van Winter (2003) 'De genealogie van de graven en hertogen van Gelre' in: Jacobs, I.D. (final ED.) Het hertogdom Gelre: Geschiedenis, kunst en cultuur tussen Maas, Rijn en IJssel, p. 37-38 (Uitgeverij Matrijs)
- ^ L.C. Bethmann (ed.), Monumenta Germaniae Historica, Scriptores, IX, Hannover, 1861, p. 186, p. 649
- ^ P. Jaffé (ed.), Monumenta Germaniae Historica, Scriptores XVII, Hannover, 1861, p. 403
- ^ J. Heller (ed.), Monumenta Germaniae Historica, Scriptores XXV, Hannover, 1880, pp. 479-480
参考文献
[編集]- C. Cawley, Limburg, fmg.ac (2006-2016).
- O.R. Redlich, art. Walram IV in de Allgemeine Deutsche Biographie (ADB), 40 (1896), pp. 775–776.
- M. Yans, art. Waleran IV, in Biographie Nationale, 27 (1938), pp. 59–63.
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