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ワシントン・キャピタルズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ワシントン・キャピタルズ
Washington Capitals
カンファレンス イースタン・カンファレンス
ディビジョン メトロポリタン
創設年 1974年 (50年前) (1974)
歴代チーム名 ワシントン・キャピタルズ
(1974 - )
ホームアリーナ キャピタル・ワン・アリーナ
ホームタウン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ワシントンD.C.
ワシントン・キャピタルズの位置(アメリカ合衆国内)
ワシントン・キャピタルズ
チームカラー 赤、白、青
     
メディア
オーナー モニュメンタル・スポーツ・アンド・エンタテイメント
GM ブライアン・マクレラン
ヘッドコーチ ピーター・ラヴィオレット
キャプテン アレクサンドル・オベチキン
獲得タイトル(獲得年)
スタンレーカップ優勝 (1回)
2018
アブコワールド (0回)
なし
カンファレンス優勝 (2回)
1998・2018
ディビジョン優勝 (11回)
1989・2000・2001・2008
2009・2010・2011・2013
2016・2017・2018
プレジデンツトロフィー (3回)
2010・2016・2017

ワシントン・キャピタルズWashington Capitals)は、アメリカ合衆国ワシントンD.C.を本拠としているナショナルホッケーリーグNHL)所属のプロアイスホッケーチームである。愛称は、キャップス (Caps) 。

歴史

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ワシントン・キャピタルズは、1975 - 1976 シーズン からNHLに参戦したが、いきなり80試合67敗、おまけにロードゲームでは僅か1勝と不名誉なリーグ記録を作ってしまった。1970年代は不遇のシーズンを重ね、1983年にデニス・マルク(Dennis Maruk)、 マイク・ガートナー (Mike Gartner) 及びボビー・カーペンター (Bobby Carpenter) の爆発的なゴールラッシュで初めてプレーオフ進出を果した。しかし、結局この年のスタンレー・カップ覇者となるニューヨーク・アイランダースの前に第1ラウンドで姿を消した。 

このあとチームは14年連続でプレーオフに参加するが、結局毎年悲嘆をかこつことになる。1980年代のキャピタルズはレギュラーシーズンではそこそこの成績を収めるのであるが、「がっかりさせるやつら(choker)」との評判を拭い去ることはできなかった。 ガートナー 、カーペンター 、マイク・リドリー (Mike Ridley) 、デイブ・クリスチャン (Dave Christian) 、 ディーノ・シサレッリ(Dino Ciccarelli )、ロッド・ラングウェイ(Rod Langway)あるいはケヴィン・ハッチャー(Kevin Hatcher)といった綺羅星のごとき選手を取り揃えながら、当時はプレイオフでも第2ラウンドに進出したのは僅か1回だけ、1990年のウェールズ地区決勝でもボストン・ブルーインズに4連敗で軽くいなされてしまう。

1990年代半ばには、キャピタルズはスタンレー・カップへの出場機会をなんとしても得ようと、無駄と思えるあがきを行う。上り調子にあった右ウイングのピーター・ボンドラ(Peter Bondra) 、ディフェンスのセルゲイ・ゴンチャー(Sergei Gonchar) 、センターのジョー・ジュノー(Joe Juneau) (1994にブルーインズから移籍したときには、既に往年の力はなかった。)らはいたものの、チームの主力選手は既に盛りを過ぎたベテランばかりであった。1993年のプレーオフ対ニューヨーク・レンジャース戦では、チーム史上でも最悪の事態が起こる。デイル・ハンター(Dale Hunter)がシリーズ勝利を決める得点を上げた後で、ピエール・タージョン(Pierre Turgeon)に対し悪質な打撃を加えたとして21試合の出場停止処分となってしまうのであった。

しかし、キャピタルズは1998年についに "chorker" のイメージを払拭することをやってのけた。ボンドラが52ゴールを上げチームの牽引車となり、ベテランのジュノー、アダム・オーツ (Adam Oates) が十分にその持ち味を発揮、そしてゴーリーのオラフ・コルジグ(Olaf Kolzig)がセーブ率 .920 を上げ、ブルーインズ、オタワ・セネターズバッファロー・セイバーズ(第6戦で劇的な再延長ゴール)を連破、ついにチーム史上初のスタンレー・カップ決勝に辿り着いた。しかし、決勝では圧倒的なデトロイト・レッドウィングスの前になすすべなく、4連敗で敗退した。 

1999年には、前年度の強さを失い元の弱小チームに戻って、プレーオフに進出できず。その後も2年間はともに第1ラウンドでピッツバーグ・ペンギンズの前に敗退した。2001年の夏には、1990年代のNHLを代表するスター選手、ヤロミール・ヤーガー (Jaromir Jagr) を破産寸前の騒動が起こったペンギンズから獲得した。この新戦力にも拘らず2002年はプレーオフ進出を逃した。

2002年のオフシーズンにもキャピタルズは、フリーエージェントで評価の高かったロバート・ラング (Robert Lang) を獲得するなど登録選手の入れ替えを図る。2003年は、再びプレーオフ出場するが、第1ラウンドでタンパベイ・ライトニングに序盤2連勝と好スタートを切るが、その後に4連敗を喫しまたしても、ファンを失望させた。

2004年の前半、チームは経費節減のため高給選手の大量放出に踏み切る。 ヤロミール・ヤーガーはレンジャーズに、その後すぐにボンドラをオタワ・セネターズにトレードで放出する。また、ロバート・ラングはデトロイトに、ゴンチャーはボストンに移籍させた。なお、ロバート・ラングの放出については、シーズン中盤でのチーム得点王の移籍であり、NHL史上類を見ない出来事である。

2004年のNHLドラフトでは、全体1位指名権を獲得し、ロシアの天才アレクサンドル・オベチキン(Alexander Ovechkin)を選択した。2004-2005シーズンは2004年から2005年のNHLロックアウトでNHLの全試合が中止となったため、オベチキンは母国ロシアで、同僚の若きスター、アレクサンダー・セミン(Alexander Semin)(2004年に19歳でキャピタルズ加入)とプレーしていた。またコルズィグ 、ブレンダン・ウィット(Brendan Witt)、ジェフ・ハルパーン(Jeff Halpern)ら他の選手も、ヨーロッパでプレーをした。

2005年もチームは不振を極める。1998年のファイナル進出時のメンバー二人のうちの一人、ウィトがトレード志願でナッシュビル・プレデターズにトレードされるなどチームは低迷し続けたが、オヴェチキンが期待を裏切らずに新人王を獲得した。 2006年にはキャプテンだったハルパーンまで抜けた上、オベチキンが昨年ほどの成績を残せなかった。

2007-08シーズンを控えキャピタルズはチームロゴ、ユニフォームのデザインを過去のものをリファインしたものに変更した。 DFのトム・ポティ、FWのマイケル・ニーランダーなどを獲得し、オベチキンが自身最高となる65ゴール112得点、彼のラインメート、トレード期限間際で獲得したクリストバル・ヒュエ (Christobal Huet)の活躍もあり、チームは実に5年ぶりにプレーオフ出場を果たした。

2008-09シーズンはオヴェチキンが50ゴールを連続で達成しただけでなく、ディフェンスマンのマイク・グリーンが30ゴールを突破(ディフェンスマンで30ゴールを突破するのはまさに偉業である)。地区1位の活躍で、プレーオフ出場を決めたが、2回戦でシドニー・クロスビーらペンギンスとの「夢の対決」に敗れ去った。また、コルジグが移籍したため、1998年ファイナル進出時のメンバーは誰一人としていなくなった。

2009年12月、キャプテンのクリス・クラーク(Chris Clark)がトレードされ、オベチキンがついにキャプテンに任命された。この年は圧倒的な強さを見せ、会長賞 (President's trophy) を獲得したが、プレーオフではモントリオール・カナディアンズにまさかの1回戦敗退を喫した。翌2010-11年は、守備面を強化。一時は8連敗など不振に沈み、オベチキンはキャリアワーストの1年を過ごしてしまったが、またしても東カンファレンス1位の座を射止めた。

2017-18シーズンではプレーオフ決勝でタンパベイ・ライトニングに4勝3敗で2度目のカンファレンス王者となる。スタンレーカップファイナルではベガス・ゴールデンナイツを4勝1敗で破り、初のスタンレー・カップ優勝を果たした。

年度別成績

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GP W L T OL GF GA PTS 最終順位 プレイオフ
1974-1975 80 8 67 5 - 181 446 21 ノリス5位 不出場
1975-1976 80 11 59 10 - 224 394 32 ノリス5位 不出場
1976-1977 80 24 42 14 - 221 307 62 ノリス4位 不出場
1977-1978 80 17 49 14 - 195 321 48 ノリス5位 不出場
1978-1979 80 24 41 15 - 273 338 63 ノリス4位 不出場
1979-1980 80 27 40 13 - 261 293 67 パトリック5位 不出場
1980-1981 80 26 36 18 - 286 317 70 パトリック5位 不出場
1981-1982 80 26 41 13 - 319 338 65 パトリック5位 不出場
1982-1983 80 39 25 16 - 306 283 94 パトリック3位 地区準決勝敗退
1983-1984 80 48 27 5 - 308 226 101 パトリック2位 地区決勝敗退
1984-1985 80 46 25 9 - 322 240 101 パトリック2位 地区準決勝敗退
1985-1986 80 50 23 7 - 315 272 107 パトリック2位 地区決勝敗退
1986-1987 80 38 32 10 - 285 278 86 パトリック2位 地区準決勝敗退
1987-1988 80 38 33 9 - 281 249 85 パトリック2位 地区決勝敗退
1988-1989 80 41 29 10 - 305 259 92 パトリック1位 地区準決勝敗退
1989-1990 80 36 38 6 - 284 275 78 パトリック3位 カンファランス決勝敗退
1990-1991 80 37 36 7 - 258 258 81 パトリック3位 地区決勝敗退
1991-1992 80 45 27 8 - 330 275 98 パトリック2位 地区準決勝敗退
1992-1993 84 43 34 7 - 325 286 93 パトリック2位 地区準決勝敗退
1993-1994 84 39 35 10 - 277 263 88 アトランティック3位 カンファランス準決勝敗退
1994-1995 48 22 18 8 - 136 120 52 アトランティック3位 カンファランス準々決勝敗退
1995-1996 82 39 32 11 - 234 204 89 アトランティック4位 カンファランス準々決勝敗退
1996-1997 82 33 40 9 - 214 231 75 アトランティック5位 不出場
1997-1998 82 40 30 12 - 219 202 92 アトランティック3位 スタンレー・カップ決勝敗退
1998-1999 82 31 45 6 - 200 218 68 南東3位 不出場
1999-2000 82 44 24 12 2 227 194 102 南東1位 カンファランス準々決勝敗退
2000-2001 82 41 27 10 4 233 211 96 南東1位 カンファランス準々決勝敗退
2001-2002 82 36 33 11 2 228 240 85 南東2位 不出場
2002-2003 82 39 29 8 6 224 220 92 南東2位 カンファランス準々決勝敗退
2003-2004 82 23 46 10 3 186 253 59 南東5位 不出場
2005-2006 82 29 41 - 12 237 306 70 南東5位 不出場
2006-2007 82 28 40 - 14 235 286 70 南東5位 不出場
2007-2008 82 43 31 - 8 242 231 94 南東1位 カンファランス準々決勝敗退
2008-2009 82 50 24 - 8 272 245 108 南東1位 カンファランス準決勝敗退
2009-2010 82 54 15 - 13 318 233 121 南東1位 カンファランス準々決勝敗退
2010-2011 82 48 23 - 11 224 197 107 南東1位 カンファランス準決勝敗退
2011-2012 82 42 32 - 8 222 230 92 南東2位 カンファランス準決勝敗退
2012-2013 48 27 18 - 3 149 130 57 南東1位 カンファランス準々決勝敗退
2013-2014 82 38 30 - 14 235 240 90 メトロポリタン5位 不出場
2014-2015 82 45 26 - 11 242 203 101 メトロポリタン2位 カンファランス準決勝敗退
2015-2016 82 56 18 - 8 252 193 120 メトロポリタン1位 カンファランス準決勝敗退
2016-2017 82 55 19 - 8 263 182 118 メトロポリタン1位 カンファランス準決勝敗退
2017-2018 82 49 26 - 7 259 239 105 メトロポリタン1位 スタンレー・カップ獲得

スタンレーカップ戦績

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優勝

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2017-2018

準優勝

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1997-1998

外部リンク

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