ローラ・ムンツ・ライアル
ローラ・ムンツ・ライアル Laura Muntz Lyall | |
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生誕 |
1860年6月18日 イギリス、ラドフォード |
死没 |
1930年12月9日 カナダ、トロント |
運動・動向 | 印象派 |
ローラ・ムンツ・ライアル(Laura Muntz Lyall、1860年6月18日 - 1930年12月9日)は、イギリス生まれのカナダの印象派の画家である。母親と子供の絵などで知られる[1]。
略歴
[編集]イングランド、ウォリックシャーのラドフォードで生まれた。結婚前の名前はLaura Adeline Muntzである。彼女が子供時代に家族はカナダに移民として移り、オンタリオ州中央部のマスコーカ地域の農場で育った[2]。
若い頃から学校の教師となったが、美術への興味はハミルトンに住む画家から絵を学ぶようになった。1882年からオンタリオの美術学校で学び、美術学校ではルーシャス・リチャード・オブライエンに学び、後にジョージ・アグニュー・リードに学んだ[3]。1887年にしばらくロンドンのサウス・ケンジントン美術学校(後のロイヤル・カレッジ・オブ・アート)で学ぶが、カナダに戻り、リードのもとで修行を続けた。1891年に7年間の留学資金を得て、パリに留学し、巨匠の作品を研究し、新しい美術の傾向を体験した。印象派の絵画に影響を受け、パリではアカデミー・コラロッシでも学び、展覧会にも出展した。
1898年にカナダに戻り、トロントにスタジオを開き、学生の教育もはじめた。ロイヤル・カレッジ・オブ・アートの準会員に選ばれた。その後、モントリオールに移った。その後、1893年のシカゴ万国博覧会や[4]、1904年のセントルイス万国博覧会など、国際的な展覧会へ出展した。カナダ王立美術院の展覧会へは1893年から1929年の間に27点を出展した。その活動はオンタリオ出身の同時代の女性画家フローレンス・カーライル(Florence Carlyle, 1864年 - 1923年)と比較される[5]。
1895年にカナダ王立美術院の会員に選ばれた。女性としては8人目であった[6]。オンタリオ芸術家協会の会員となり、1899年から1903年の間、女性としてはじめて理事を務めた。
1915年に姉が死ぬとトロントに戻り、義理の兄チャールズ・ライアルと結婚し、姉の残した11人の子供の面倒をみながら作品を描いた[7]。
作品
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Oriental Poppies
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若い女性の肖像
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水仙を持つ少女
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河畔の木々 (1900)
参考文献
[編集]- ^ “LYALL, Laura Muntz”. Canadian Women Artists History Initiative. Concordia University. 27 September 2013閲覧。
- ^ Farr, Dorothy; Luckyj, Natalie (1975). From Women's Eyes: Women Painters in Canada. Kingston: Agnes Etherington Art Centre. pp. 28
- ^ Prakash, A.K. (2008). Independent Spirit: Early Canadian Women Artists. Buffalo, New York: Firefly Books. pp. 265–268. ISBN 1554074177
- ^ “Women's Art at the World's Columbian Fair & Exposition, Chicago 1893”. 24 July 2018閲覧。
- ^ Gualtieri, Julia (1989). The Woman as Artist and as Subject in Canadian Painting. Kingston, Ontario: Queen's University. pp. 145–146, 155–161
- ^ “Members since 1880”. Royal Canadian Academy of Arts. 8 March 2015閲覧。
- ^ Murray, Joan (2012). Laura Muntz Lyall: Impressions of Women and Childhood. Montreal, Quebec: Boardwalk Ventures Inc. by McGill Queen's University Press. pp. 48. ISBN 978-0-7735-4098-9
関連項目
[編集]- ウィキメディア・コモンズには、ローラ・ムンツ・ライアルに関するカテゴリがあります。