ロマン・イングヴァレヴィチ
表示
ロマン・イングヴァレヴィチ Роман Ингваревич | |
---|---|
コロムナ公 | |
コロムナ防衛の準備をするロマン・イングヴァレヴィチ | |
在位 | 1217年 - 1237年 |
死去 |
1238年 |
家名 | リューリク家 |
父親 | リャザン公イングヴァリ |
ロマン・イングヴァレヴィチ(ロシア語: Роман Ингваревич、? - 1238年)はリャザン公イングヴァリ(ru)の子である。コロムナ公:1217年 - 1237年。
生涯
[編集]1237年12月のモンゴルのルーシ侵攻におけるリャザン公国での戦闘に際して、おじのリャザン大公ユーリー、兄弟のオレグはリャザン防衛戦を指揮し、ロマンはウラジーミル大公国軍と共に北方へ転戦した。『ラヴレンチー年代記』は、ウラジーミル大公国軍と、ロマン、ノヴゴロド公国軍が、ウラジーミルから共に進撃したことを伝えている。一方『イパーチー年代記』は、ロマンはプロンスク公ミハイルの息子(名は記されていない)と共に、ウラジーミルへモンゴル帝国軍進入の報を伝えた、と記している。
ロマンは1238年1月の、コロムナ近郊の戦い(ru)で死亡した。
ロマンの素性に関しては、『バツのリャザン襲撃の物語(ru)』に述べられる、コロムナ公グレプ・イングヴァレヴィチという人物と同一人物とみなす説がある[1]。また、ロマン・イゴレヴィチと呼んでいる研究者もいる[2][3]。なお、1217年に死亡した、リャザン公のロマン・イゴレヴィチという人物が存在している。
出典
[編集]- ^ Войтович Л. КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ СХІДНОЇ ЄВРОПИ
- ^ Храпачевский Р. П. Батыево побоище
- ^ Каргалов В. В. Конец ордынского ига