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ロバート・H・プリュイン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ロバート・プルインから転送)
ロバート・H・プリュイン
Robert H Pruyn
第2代 駐日本アメリカ合衆国弁理公使
任期
1862年5月17日 – 1865年4月28日
大統領エイブラハム・リンカーン
前任者タウンゼント・ハリス
後任者ロバート・B・ファン・ファルケンブルグ
個人情報
生誕 (1815-02-14) 1815年2月14日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク州オールバニ
死没 (1882-02-26) 1882年2月26日(67歳没)
アメリカ合衆国ニューヨーク州オールバニ
政党ホイッグ党
出身校ラトガース大学
職業法律家軍人外交官政治家

ロバート・H・プリュイン[1]プルーイン[2]プライン[3][4]英語: Robert Hewson Pruyn [praɪn][5]1815年2月14日 - 1882年2月26日)はアメリカ合衆国法律家軍人外交官駐日アメリカ合衆国弁理公使)、政治家である。

生涯

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政治家、軍人としての経歴

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プリュイン家はニューヨークにおける最も古くまた最も尊敬されているオランダ系の一家であり、プリュインが生まれた時点で、すでに200年以上オールバニに居住していた[6]。プリュインは1833年ラトガース大学を卒業し、1836年には修士号を取得した。その後、オールバニで法律家としての修行を開始した[7]。また州の民兵としても活動し、1841年には軍の法務総監に任命され、その職を1846年まで勤め、また1851年にも同職についた[8][9]

ウィリアム・スワードの政治仲間であり親しい友人でもあったため、1848年から1852年まで、さらに1854年にはニューヨーク州下院のオールバニ地区選出のホイッグ党代議士を務めた[10]1850年1月30日、下院議長のノーブル・S・エルダーキン英語版が妻の病気の看病のため辞職すると、プリュインが議長に選出された[7]。また、1854年にも議長に選出されている[11]。1855年、マイロン・H・クラーク英語版州知事は、ジョン・ワッツ・ド・ペイスターに代わりプリュインをニューヨーク州軍の州兵長官に任命した[8][12][13]。また、民兵組織においては准将の地位を得た。[14]

駐日米国公使としての活動

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1861年国務長官となっていたスワードの個人的な要請に基づき、エイブラハム・リンカーン大統領はプリュインを第2代の駐日米国公使に任命した。プリュインはこのとき経済的に困窮していたこともあり、高給であるうえに有利な為替で大きな利益が上げられることを前任のタウンゼント・ハリスから聞いており、この職を受け入れた[15]

1862年5月17日文久2年4月19日)にプリュインは将軍徳川家茂に謁見し、リンカーン大統領の信任状を提出した。

前任者のタウンゼント・ハリスと同様、当初は欧州諸国とは異なる独自外交を行った。生麦事件後、イギリスフランスが武力を背景に幕府と交渉を行ったが、プリュインはこれに対して批判的であった。しかし、その砲艦外交が効果をあげるのを見たこと、さらに自国の軍用帆船ワイオミングが日本に派遣されてきたことから、徐々に英仏との協調路線に転換していく。アメリカにとって、プリュインの日本における最大の功績は下関戦争後の交渉であった[16]。下関海峡で米国商船が砲撃されたことを知ると、プルインはワイオミングに報復攻撃を命じたが、これは日本に対する西欧諸国の最初の攻撃であった。四国艦隊下関砲撃事件の際、アメリカは適切な蒸気軍艦を日本近海に有していなかったため、蒸気商船タ・キアンをチャーターし、武装させて攻撃に参加させた。江戸幕府との交渉はアメリカにとって極めて成功であったと認識されている[17][18]

なお、軍艦発注では問題を起こしている。1862年9月22日(8月29日)、老中板倉勝静水野忠精がプリュインに軍艦の発注を相談した。幕府は先任のハリスにフリゲートコルベットをそれぞれ一隻発注していたが、南北戦争の勃発で実現していなかった。プリュインは大型艦よりは小型艦を多数持つ方が良いと回答した。10月14日(閏8月21日)、最終的にコルベット2隻、ガンボート1隻と、蒸気機関駆動の砲身中ぐり盤がアメリカに発注された。1864年6月、富士山丸が完成したが、下関戦争の勃発によりリンカーン大統領は富士山丸の出航を差し止め、その他の軍艦の製造も中止された。結局、富士山丸が日本に到着したのは1866年1月23日(慶応元年12月7日)であった。プリュインはこの軍艦の製造業者として身内を使った疑惑があり、幕府に対してリンカーン大統領の指示の関する十分な説明もしなかったため、幕府の信頼を失った。このため、1865年アントン・ポートマンを代理公使とし、病気を理由に帰国した[19][20]

帰国後

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1865年ニューヨークに戻り、ウィリアムズ大学において法学博士号を取得した[7]。さらに、オールバニ国立商業信託銀行(National Commercial Bank and Trust of Albany)の頭取となり、またオールバニ法律学校英語版の創立者の一人となった[21]

1866年にはニューヨーク州知事選挙に副知事候補として立候補したが、落選した[22]

1882年2月26日、オールバニにおいて急死した[23]

脚注

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  1. ^ プリュイン』 - コトバンク
  2. ^ プルーイン』 - コトバンク
  3. ^ 小澤悦夫リンカーン大統領と日本」『文化論集』第24巻、早稲田商学同攻會、2004年3月、1-37頁、hdl:2065/6081ISSN 0918-4589CRID 1050001202520364032 
  4. ^ 森川隆司「英学者・尺振八とその周辺」『英学史研究』第1979巻第11号、日本英学史学会、1978年7月、77-106頁、doi:10.5024/jeigakushi.1979.77ISSN 03869490 
  5. ^ David A. Steinberg「Hiking the Road to Ruins」p.120, Rutgers University Press, 2015
  6. ^ "A Guide to the Pruyn Family Papers, 1679-1978 Archived 2008年10月30日, at the Wayback Machine.". Albany Institute of History & Art. Retrieved March 14, 2007
  7. ^ a b c "Hudson-Mohawk Genealogical and Family Memoirs: Pruyn". Schenectady County Public Library. Retrieved March 14, 2008.
  8. ^ a b Allaben, p. 205
  9. ^ Seward, p. 535
  10. ^ Treat, p. 193
  11. ^ Findling, p. 427
  12. ^ Allaben, p. 304
  13. ^ The New York Almanac and Yearly Record. Mason Brothers: New York, 1857
  14. ^ Hutchins, p. 400
  15. ^ Spoilsmen in a "flowery Fairyland": The Development of the U.S. Legation in Japan, 1859-1906 Leonard Hammersmith, Kent State University Press, 1998, p26-52
  16. ^ Shavit, p. 406
  17. ^ Stern, p. 159
  18. ^ Johnson & Howard, p. 424
  19. ^ Treat, p. 194
  20. ^ "ARRIVAL OF HON. ROBERT H. PRUYN". New York Times. December 14, 1865.
  21. ^ "The History of Albany Law School". Albany Law School. Retrieved March 14, 2008.
  22. ^ The Conservative Union state convention opens in NYT on September 11, 1866
  23. ^ "THE HON. ROBERT H. PRUYN DEAD". New York Times. February 27, 1882.

参考

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その他参考図書

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外部リンク

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