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ロバート・テイラー (情報工学者)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Robert William Taylor
ロバート・ウィリアム・テイラー
Bob Taylor
ロバート・ウィリアム・テイラー(2017)
生誕 (1932-02-10) 1932年2月10日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 テキサス州ダラス
死没 2017年4月13日(2017-04-13)(85歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州サンマテオ郡
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
研究分野 計算機科学
研究機関 国防高等研究計画局
パロアルト研究所
ディジタル・イクイップメント・コーポレーション
出身校 南メソジスト大学
テキサス大学オースティン校
主な業績 Internet pioneer
Computer networking & Communication systems
Modern personal computing
プロジェクト:人物伝
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ロバート・ウィリアム・テイラー(Robert William Taylor、1932年2月10日 - 2017年4月13日[1])は、インターネットのパイオニアであり、後のパーソナルコンピュータへと繋がる開発を行ったチームにも属していた。ARPAのIPTO(Information Processing Techniques Office)を指揮し(1965年 - 1969年)、パロアルト研究所計算機科学研究室(CSL)の設立に関与し(1970年 - 1983年)、DECの Systems Research Center の設立にも関わった(1983年 - 1996年)[2]

アメリカ国家技術賞ドレイパー賞などを受賞[3]。次のような言葉で高いビジョンを持っていたことを示している。

インターネットはテクノロジーに関するものではなく、コミュニケーションに関するものである。インターネットは地理を問わず、興味・アイデア・ニーズを共有する人々を結びつける。[3]

生い立ち

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1932年、テキサス州ダラスで生まれる[4]。養父はメソジスト派の牧師で、教区から教区へ転々とする放浪の幼少期を過ごした。16歳で南メソジスト大学に入学。朝鮮戦争の際は海軍で働き、復員すると軍で得た給料でテキサス大学に進学した。テキサス大学では興味のある科目を手当り次第に受講。最終的に実験心理学を中心として、数学、哲学、英語、宗教学を学んだ。最初に従事した研究はと聴覚の神経系に関するものだった。

卒業後、フロリダ州で女子高校の数学教師になり、バスケットボール部のコーチも務めた。給料は安く、しかも双子が生まれたことで経済的に苦しくなった。

その後、航空機製造企業で技術者として働き、給料が上がった。軍需企業マーティン・マリエッタで働いた後、NASAに研究提案書を送り、1961年にNASAに招かれ、そこで働くようになった。

コンピュータ関連の経歴

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ワシントンD.C.にてNASAで働き始めたころ、ジョン・F・ケネディアポロ計画を始めるなど、科学研究予算が増えていた。1962年後半、アメリカ国防総省配下の高等研究計画局 (ARPA) のIPTOを指揮していたJ・C・R・リックライダーと出会う。リックライダーは1960年にコンピュータの新しい使い方を提唱した論文を書いていた[5]

また、カリフォルニア州メンローパークスタンフォード研究所にて、もう1人の夢想家ダグラス・エンゲルバートと出会っている。テイラーはエンゲルバートの研究に資金を提供し、エンゲルバートがコンピュータマウスをスケッチし、ビル・イングリッシュが製作した。エンゲルバートのチームは1968年、完成したNLSというシステムのデモンストレーションを公開した[6]。後に「すべてのデモの母」と呼ばれた。

ARPA

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1965年、NASAからARPAのIPTOに移り、当初はアイバン・サザランドを補佐し、間もなくIPTOを指揮するようになった。IPTOでは主要な大学や企業の研究所でのコンピュータ関連の先端研究に資金提供している。ARPAが資金提供したコンピュータ関連プロジェクトにはタイムシェアリングシステム (TSS) に関するものがあった。それは単一の大型コンピュータを端末経由で複数人で同時に利用できるもので、従来のパンチカード紙テープによるバッチ処理とは異なる対話的な利用形態である。ペンタゴンにあるテイラーのオフィスには、MITのTSSに接続した端末、カリフォルニア大学バークレー校のTSSに接続した端末、サンタモニカSystem Development Corporation のシステムに接続した端末があった。それぞれがユーザーのコミュニティを形成しているのに気付いたが、どのコミュニティも互いに孤立していた[6]

テイラーはARPAが資金提供しているプロジェクト群を相互接続するコンピュータネットワークを構築し、1つの端末で全部と通信できるようにしたいと考えた。サザランドが教職に戻ると、1966年6月にテイラーが正式にIPTOの管理者となった。1966年2月には早くもネットワーク構築の必要性をARPAの Charles M. Herzfeld に進言してプロジェクトの予算を確保し、MITのリンカーン研究所からローレンス・ロバーツを引き抜いてプロジェクトを任せた。ロバーツは当初ワシントンD.C.に移ることに難色を示したが、ARPAはリンカーン研究所に多額の資金を提供しており逆らえなかった[7]。このプロジェクトにはリックライダーも助言しており、また Wesley A. Clark はネットワークの各ノードに専用のコンピュータ Interface Message Processor を配置し、集中制御ではなく分散制御することを提案した。ARPAはこのシステム構築について見積依頼 (RFQ) を発行し、Bolt, Beranek and Newman (BBN) が受注することになった。AT&Tのベル研究所IBMの研究部門にもプロジェクト参加の打診があったが、興味を示さなかった。1967年、関係者を集めた会議が開催されたが、ネットワークで接続される予定の各拠点はそれぞれの研究の進捗に影響が出るとして、このネットワークの試験に抵抗を示した。

J・C・R・リックライダーとテイラーは、1968年4月に論文 "The Computer as a Communication Device"(通信装置としてのコンピュータ)を共同執筆して発表した[8]。インターネットの未来を予見したこの論文は次のような一文で始まっている。

数年以内に、人々は直接会うより効率的にマシンを通してコミュニケートできるようになるだろう。[8]

実際には、数年より若干時間がかかって実現した。

あるときテイラーはARPAから、ベトナム戦争についての複数の報告書間の矛盾について調査することを命じられた。35歳ながら民間人としての地位にふさわしい「准将」の階級を与えられ、戦地であるベトナムにも数回赴いた。サイゴンでは南ベトナム軍事援助司令部にコンピュータセンターを立ち上げるのを助けた。これにより戦地とアメリカとの通信状況は改善され、報告はより一貫したものとなった[7]。この仕事のため、1969年にARPANETが始動した際にはプロジェクトから離れていた[7]

その後1年ほど、ユタ大学でARPAの資金でコンピュータグラフィックスを研究していたアイバン・サザランドの下で働いている。1970年、次の職に就くためカリフォルニア州パロアルトに引っ越した。

ゼロックスPARC

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ジョージ・ペイクゼロックスの創設されたばかりのパロアルト研究所 (PARC) で計算機科学研究室の管理者としてBBNからジェローム・I・エルキンドを招いた[9]。テイラーはエルキンドにより副管理者として雇われた。

PARCで1970年から1983年にかけて開発されたテクノロジーは、ARPANETからインターネットへの進化に貢献したものと今日パーソナルコンピュータと呼ばれるものの原型となったものがある。

エルキンドはしばしば会社や政府のプロジェクトに参加していた。不在が続いたためテイラーが1978年初めごろ管理者の役職を引き継いだ。1983年、集積回路が専門のウィリアム・J・スペンサーが後任となった。スペンサーはテイラーがPARCの成果の商業化に失敗したと非難している[10]

DEC SRC

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ディジタル・イクイップメント・コーポレーション (DEC) のケン・オルセンに雇われたテイラーは、パロアルトにて DEC Systems Research Center (SRC) を創設。PARCから多くの研究者がこちらに移籍した。SRCでのプロジェクトとしては、Modula-3プログラミング言語の開発、マルチプロセッサ用のスヌープ方式キャッシュメモリの開発、マルチスレッド対応UNIXの開発、ネットワーク型ウィンドウシステムの開発などがある。

引退

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テイラーは1996年に引退し、その後はカリフォルニア州ウッドサイドに住んでいる。2000年、インターネットの制御とアクセスについて将来的な懸念を表明した。自動車を運転するのに免許が必要なように、インターネットユーザーにもライセンス制が必要だとし、次のように述べている。

高速道路上よりもインターネット上で多くの人々を危険にさらす悪い方法が存在する。自己再生するネットワークを生成することは可能であり、それらは抹殺することが非常に困難か不可能である。私としてはみんなにそれを使う権利を持って欲しいが、責任を保証する何らかの方法が必要だ。
それは誰でも自由に入手できるだろうか? もしそうでないなら、大きな失望となるだろう。[3]

受賞歴

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出典

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  1. ^ 米国でインターネット創設者の1人が死去 Sputnik 日本 2017年4月16日
  2. ^ John Naughton (October 5, 200). A Brief History of the Future: Origins of the Internet. Phoenix. ISBN 978-0-7538-1093-4 
  3. ^ a b c Marion Softky (October 11, 2000). “Building the Internet: Bob Taylor won the National Medal of Technology "For visionary leadership in the development of modern computing technology"”. The California Almanac. http://www.almanacnews.com/morgue/2000/2000_10_11.taylor.html 2011年3月30日閲覧。 
  4. ^ Gary Susswein (2009年9月14日). “Internet and use of the computer as communication device the 1960s brainchild of psychology alum”. University of Texas Alumni profile. 2010年7月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年3月30日閲覧。
  5. ^ J.C.R. Licklider (March 1960). “Man-Computer Symbiosis”. IRE Transactions on Human Factors in Electronics HFE-1: 4–11. http://groups.csail.mit.edu/medg/people/psz/Licklider.html. 
  6. ^ a b John Markoff (December 20, 1999). “An Internet Pioneer Ponders the Next Revolution”. New York Times. http://partners.nytimes.com/library/tech/99/12/biztech/articles/122099outlook-bobb.html 
  7. ^ a b c Oral history interview with Robert William Taylor”. Charles Babbage Institute, University of Minnesota. 2011年4月1日閲覧。
  8. ^ a b J.C.R. Licklider; Robert Taylor (April 1968). “The Computer as a Communication Device”. Science and Technology. http://www.kurzweilai.net/the-computer-as-a-communication-device. 
  9. ^ Butler W. Lampson (January 1986). “Personal Distributed Computing: The Alto and Ethernet Software”. ACM Conference on the History of Personal Workstations (Palo Alto). http://research.microsoft.com/en-us/um/people/blampson/38-AltoSoftware/WebPage.html. 
  10. ^ Henry Chesbrough (Winter 2002). “Graceful Exits and Missed Opportunities: Xerox's Management of Its Technology Spin-off Organizations”. The Business History Review 76 (4): 803–837. http://www.jstor.org/stable/4127710. 
  11. ^ 1984 ACM Software Systems Award citation
  12. ^ 1994 ACM Fellow citation
  13. ^ The National Medal of Technology and Innovation Recipients”. US Patent and Trademark Office (1999年). 2011年3月30日閲覧。
  14. ^ 2004 Draper Prize citation

関連文献

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外部リンク

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