ロバート・シャーリー (1692-1714)
タムワース子爵ロバート・シャーリー(英語: Robert Shirley, Viscount Tamworth、1692年12月28日 – 1714年7月5日)は、グレートブリテン王国の政治家。1713年から1714年まで庶民院議員を務めた。1711年から1714年までタムワース子爵の儀礼称号を使用した[1]。
生涯
[編集]ロバート・シャーリー閣下(1699年2月25日没、第14代チャートリーのフェラーズ男爵ロバート・シャーリーの長男)とアン・フェラーズ(Anne Ferrers、1698年3月没、サー・ハンフリー・フェラーズの娘)の長男として、1692年12月28日にストーントン・ハロルドで生まれ、1693年1月9日に同地で洗礼を受けた[1]。1698年3月に母が死去すると、タムワース城やウォルトン=オン=トレントなどの地所を継承した[1]。これらの地所は1688年時点で毎年約2,000ポンドの収入が得られるという[1]。1699年2月25日に父が死去すると、祖父の法定推定相続人になり[2]、1711年に祖父がフェラーズ伯爵に叙されると、シャーリーはその法定推定相続人としてタムワース子爵の儀礼称号を使用した[1]。
1713年イギリス総選挙でトーリー党候補としてレスターシャー選挙区から出馬した[3]。タムワース子爵の出馬は1713年1月に決定され、それが発表されるとホイッグ党から初代ハーバラ伯爵ベネット・シェラードと第3代準男爵サー・ギルバート・ピッカーリングが出馬すると噂されたが、第4代準男爵サー・ジョージ・ボーモントによると、タムワース子爵とその支持者がホイッグ党員にお金を「浴びせて」(ply’d)立候補を取りやめさせた[3]。これによりタムワース子爵は無投票で当選した[3]。
議会では1714年6月22日に関税に関する議案で投票集計係を務めたが[2]、直後の7月5日に天然痘により生涯未婚のまま死去、21日にストーントン・ハロルドで埋葬された[1]。父に先立って死去したため、爵位を継承することはなかった[1]。母から継承した領地は妹エリザベスが継承した[1]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1926). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Eardley of Spalding to Goojerat) (英語). Vol. 5 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. p. 332.
- ^ a b Hanham, Andrew A. (2002). "SHIRLEY, Robert, Visct. Tamworth (1692-1714), of Staunton Harold, Leics.". In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年10月29日閲覧。
- ^ a b c Hanham, Andrew A. (2002). "Leicestershire". In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年10月29日閲覧。
グレートブリテン議会 | ||
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先代 サー・トマス・ケイヴ準男爵 サー・ジェフリー・パーマー準男爵 |
庶民院議員(レスターシャー選挙区選出) 1713年 – 1714年 同職:サー・トマス・ケイヴ準男爵 |
次代 サー・ジェフリー・パーマー準男爵 サー・トマス・ケイヴ準男爵 |