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ロバート・キングスミル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ロバート・ブライス・キングスミル
Robert Brice Kingsmill
サー・ロバート・キングスミル
生誕 1730年(月日不詳)
アイルランド王国ベルファスト
死没 1805年11月23日
ハンプシャー州シドモントン
所属組織 イギリス海軍
軍歴

1764年 - 1805年

最終階級 青色大将
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初代準男爵サー・ロバート・ブライス・キングスミル(Sir Robert Brice Kingsmill, 1st Baronet, 1730年 - 1805年11月23日)は、イギリス海軍士官である。七年戦争アメリカ独立戦争、そしてフランス革命戦争ナポレオン戦争に従軍し、軍歴は60年近くにも及んだ。ホレーショ・ネルソンの親友でもあった。西インド諸島ジョージ・ブリッジズ・ロドニーと共に任務に就いたが、戦闘で負傷し、1778年のウェサン島の海戦では、オーガスタス・ケッペルの艦隊の一員として参戦した。また、下院議員として政治にも足を踏み入れたが、戦争が勃発するたびにそれを投げ打って海軍の任務に就いた。1793年、フランス革命戦争の勃発の頃に将官となり、キングスミルはアイルランド沿岸の最高司令官として数度にわたるフランスのアイルランド侵攻や反乱の扇動を撃退した。1805年11月23日、シドモントンコートで没した。晩年は準男爵に叙せられ、最終階級は青色大将だった。

海軍入隊と家族

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キングスミルは、ベルファストのキャッスル・チチェスターで、イギリス海軍大佐のチャールズ・ブライスと妻メアリーの息子として生まれた[1][2]。元々の名はロバート・ブライスだった。1746年10月29日に、父の後を追って海軍に入隊し、14門スループ船のスピードウェル英語版熟練船員となった[1]。数年間スピードウェルで任務に就いた後、1748年10月3日士官候補生となり、1754年7月5日海尉試験に合格して、1756年4月29日に委任状を受けた[1]。七年戦争の勃発により、ブライスはさらに昇進の機会を得、1761年2月には、やはりスループ船のスワロー英語版の艦長兼指揮官となって、この年の7月3日フランス私掠船スルタンを拿捕し、自らの地位を確固たるものとした。その後まもなく臼砲艦バシリスク英語版に異動した。この時期に一度本国に呼び戻され、ジョージ3世と結婚予定の、メクレンブルク=シュトレーリッツシャルロッテ公女と、その随行員を送り届けるためのヨットに乗務した。この航海は激しい嵐のためなかなか進めなかったが、すべてのヨットと海軍軍人たちは無事にメクレンブルク=シュトレーリッツに到着した[3]。その後ブライスはバシリスクに戻り、ロドニーと西インド諸島へ向かい[1][4]マルティニークセントルシアへの急襲の支援を行ったが、ブライスはこの時に負傷した[1][5]

軍功への見返りとして、ブライスは1762年5月26日、ポストキャプテン(肩書のみでなく職権を有する海軍大佐)に昇進した。また、28門の6等艦クレセント英語版の指揮を命じられた[1]。その後西インド諸島に戻り、七年戦争が終結した1764年までそこに滞在してからイギリスに戻った[1][3]1766年頃にエリザベス・コリーと結婚した。エリザベスは、ハンプシャーのシドモントンコートを、その年の1月8日に亡くなったおじから土地を受け継いでいた[1][3]。ブライスはいったん海軍を退役し、戦争のない日々を、新しく得た富と地位を満喫しながら過ごした[3][6]

現役への復帰と政界進出

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ウェサン島の海戦

1778年、アメリカ独立戦争でフランスとの交戦となり、ブライス改めキングスミルは海軍に戻った。ヴィジラントの指揮を任され、1778年のウェサン島の海戦では、オーガスタス・ケッペル提督の艦隊の一員となった[6][7][8] 。この勝敗ははっきりせず、戦後、キングスミルを含む士官の指揮を巡って議論と陰謀がうずまき、キングスミル自身にもはね返って来た[6][7]。西インド諸島での任務を託されたが、指揮官を辞することでそれを断った[6]

キングスミルは、この退役を利用して政界入りをした。庶民院英語版グレートブリテン王国時代)にワイト島ヤーマス選挙区から出馬したが、議員生活はわずか1年だった[6]。彼の道楽半分な議員生活のため、高い地位の人々の多くが敵にまわり、乗るべき艦のないまま就役を待機し、その後74門3等艦のエリザベスに乗った[6]リチャード・ハウ提督のジブラルタル救援に参戦するには時間がなく、その代わりにインドへ出港予定の援軍輸送の任務を引き受け[6]、74門のグラフトン、64門のユーロパ、32門のイフィゲニア英語版を連れて援軍を輸送した[7]1783年1月17日に出港したが、ビスケー湾を航海している途中に激しい強風に遭い、かなりの損失を被って、スピットヘッドまで戻らざるを得なかった[6][7]。船を修理に出す前に、キングスミルはパリ条約が署名され、戦争が終わったことを知った。もはやインドまでの援軍は必要なかった[6][7]。しかしエリザベスは引き続き護衛艦として就役し、キングスミルはこの艦の指揮官として3年間配属された[6][9]

バウンティ号の反乱

議員生活再開の機会を得たキングスミルは、トレゴニーの選挙区から立ち、1790年まで議員をつとめた[6][8]。議会で発言することはなかったようだが、記録によれば、1785年の改正法案でウィリアム・ピットに一票を投じている。しかしキングスミルは1788年から1789年摂政危機の間、ピットと反目し、リッチモンド公爵チャールズ・レノックス1786年の砦強化計画にも反対していた[6]。1790年のヌートゥカ危機英語版でキングスミルの議員生活は終わりをつげた、90門艦デューク英語版の指揮官として現役に復帰したからだった[6][9] 。外洋に出る前に危機は過ぎ去り、キングスミルはデュークを退役させ、再び準引退生活に入った[6]。1790年の10月、彼は軍法会議の裁判員の一人としてバウンティ号の反乱事件に関与することとなった[10]

フランス革命戦争

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フランスのアイルランド侵攻中における、1797年1月13日の海戦

1793年2月1日革命後のフランスとの戦争の勃発により、海軍士官は一斉に昇進を受けた[9]。キングスミルは白色少将となり、指揮官としての経験が比較的少なかったにもかかわらず、アイルランドの基地で任務に就いた[6][8][11]。彼の艦隊には2隻の戦列艦、7隻のフリゲート艦そして4隻の小型艦がいて、アイルランド近海で群がってくる敵艦とすばやく戦えるように配置した[6]1794年白色中将に昇進し、複数の私掠船とフランスの補給艦を拿捕して富を得続けた[11][12]

1796年、キングスミルは引き続き基地にとどまり、フランスのアイルランド遠征に完勝した[6]ブレストから来た、ジュスタン・ボナヴァンテュール・モラール・ド・ガル英語版提督率いるフランス主力軍は、ジョン・コルポイズ提督指揮下のイギリス軍艦地の封鎖をかわしながら、ユナイテッド・アイリッシュメン英語版が蜂起するであろうという期待のもと、陸軍の支援にアイルランドへと向かった。キングスミルは、自軍が、フランス軍と展開戦を交わすには人数が少ないことを承知していたが、フランス艦隊を尾行し、最終的にフランス軍は大風によって散らされ、なんとかフランスへと退却しえた[6]。このことは、アイルランドに危険が迫っていることと、キングスミルの艦隊がいかに重要であるかの証明となった。海軍本部はキングスミル艦隊への支援と物資の供給を急いだ[6]1798年5月、フランスが別の行動を企ててきた時のためにキングスミルは準備を整えていたが、主力軍はトーリー島の戦い英語版ジョン・ボルラース・ウォーレン英語版に壊滅させられ、フランスの脅威にはとどめがさされた[12]

退役と晩年

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ホレーショ・ネルソン

キングスミルはその後も基地の運営に努め、1799年2月14日青色大将に昇進した[11]。キングスミルは早くも1798年の2月には、海軍卿のスペンサー伯ジョージ・スペンサーに退役を願い出ていたが、その申し出がやっと聞き入れられたのは、1800年も終わりに向かう頃だった[12]。彼は正式に引退し、アラン・ガードナーが後を引き継いだ[13]

1800年11月24日、キングスミルは長年の軍人生活への感謝として、ジョージ3世から準男爵に叙せられた[11]。退役後はシドモントンで暮らし、1805年に75歳でそこで没した[12]。それまでに60年近い海軍士官の生活をしており、4つの主だった戦争に参戦していた[12]。キングスミルには子供がおらず、準男爵の爵位は甥のロバートが継いだ[8]また、同時期に任務に就いていた者同士として、キングスミルとホレーショ・ネルソンは親友となり、1805年10月21日の、トラファルガーの海戦でのネルソンの死までその友情は続いた[14]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h Tracy. Who's who in Nelson's Navy. p. 219 
  2. ^ Campbell. Naval history of Great Britain. p. 436 
  3. ^ a b c d Campbell. Naval history of Great Britain. p. 446 
  4. ^ Campbell. Naval history of Great Britain. p. 437 
  5. ^ Campbell. Naval history of Great Britain. p. 445 
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s Tracy. Who's who in Nelson's Navy. p. 220 
  7. ^ a b c d e Campbell. Naval history of Great Britain. p. 447 
  8. ^ a b c d “Kingsmill, Sir Robert (1730-1805)”. Dictionary of National Biography. (1892). p. 184 
  9. ^ a b c Campbell. Naval history of Great Britain. p. 448 
  10. ^ Court Martial of William Bligh et al for the Loss of the Bounty” (22 October 1790). 13 July 2010閲覧。
  11. ^ a b c d Ralfe, The Naval Biography of Great Britain, p. 356 
  12. ^ a b c d e Tracy. Who's who in Nelson's Navy. p. 221 
  13. ^ Ryan, Richard. Biographia Hibernica. p. 357 
  14. ^ Nelson (1846), The Dispatches and Letters of Vice Admiral Lord Viscount Nelson, ISBN 1-4212-4840-9 

参考文献

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  • Tracy, Nicholas (2006). Who's who in Nelson's Navy: 200 Naval Heroes. London: Chatham Publishing. ISBN 1-86176-244-5 
  • Campbell, John (1818). Naval history of Great Britain: including the history and lives of the British admirals. 7. London: Baldwyn and Co. 
  • Ryan, Richard (1822). Biographia Hibernica: a biographical dictionary of the worthies of Ireland, from the earliest period to the present time. 2. Sherwood, Neely & Jones 
  • Laughton, J. K. (1892). “Kingsmill, Sir Richard (1730-1805)”. Oxford Dictionary of National Biography. 31. Oxford University Press . Revised version available online (subscription required).
  • Burke, Bernard (1844). A genealogical and heraldic history of the extinct and dormant baronetcies of England, Ireland and Scotland (2 ed.). J. R. Smith 
  • Barrington, Samuel (22 October 1790). “Court Martial of William Bligh et al for the Loss of the Bounty”. 13 July 2010閲覧。
  • Nelson, Admiral Lord Horatio (1846) [1804], The Dispatches and Letters of Vice Admiral Lord Viscount Nelson, 6, London: Henry Colburn, pp. 133–134, ISBN 1-4212-4840-9 
  • Ralfe, James (1828), The Naval Biography of Great Britain: Consisting of Historical Memoirs of Those Officers of the British Navy who Distinguished Themselves During the Reign of His Majesty George III, 1, London: Whitmore & Fenn, pp. 354–356, ISBN 1-154-06903-6 
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