ロジェ・リヴィエール
獲得メダル | ||
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1960年ツール・ド・スランスにて(中央) | ||
フランス | ||
男子 自転車競技 | ||
世界選手権自転車競技大会 | ||
金 | 1957 リエージュ | プロ個人追抜 |
金 | 1958 パリ | プロ個人追抜 |
金 | 1959 アムステルダム | プロ個人追抜 |
ロジェ・リヴィエール(フランス語: Roger Rivière, 1936年2月23日 - 1976年4月1日)は、フランス・サン=テティエンヌ出身の元自転車競技選手。
経歴
[編集]華々しい活躍
[編集]アマチュア時代、1956年のツール・ド・ヨーロッパで総合優勝を果たし、翌1957年、ラファエル・ジェミニアーニがプレーイングマネージャーを務める、サン・ラファエルチームと契約してプロ転向。その年、フランス国内選手権・個人追い抜きにおいて、永遠のライバルとなるはずだったジャック・アンクティルを破って優勝。さらに同年の世界自転車選手権・個人追い抜きも制覇し、加えてミラノでアワーレコードも樹立(46.923km)するという、華々しい活躍ぶりを見せる。
翌1958年も世界選手権・個人追い抜きを制覇。1959年にはロードレースでも活躍を見せ、ブエルタ・ア・エスパーニャやドーフィネ・リベレにおいて区間優勝を果たした他、ツール・ド・フランスでも総合4位に入る。そして、世界選手権の個人追い抜きでは3連覇を達成。さらに再び9月23日、ミラノでアワーレコードを樹立(47.347km)。またこのアワーレコードは1967年10月30日にフェルディナント・ブラックが48.093kmを樹立するまでの間保持された。
この年のツールでは、アンクティルといさかいがあったようである[1]が、当時まだ23歳のリヴィエールが、アンクティルを凌ぐ可能性はこの時点では十分にあった。翌1960年のツールでは、同年のジロ・デ・イタリアを制したアンクティルが不参加。一方、リヴィエールは前年に引き続きフランスナショナルチームの一員として参加。そして、一時はマイヨ・ジョーヌ争いにも加わったが、後に悲劇に見舞われることになる。
ツール・ド・フランス1960
[編集]この年のツールにおいて、リヴィエールは第2、第6ステージを既に制し、ピレネー越えの最初のステージとなる第10ステージにおいて、この大会の総合優勝を果たすことになるガストネ・ネンチーニを下し、このステージでマイヨ・ジョーヌを奪取したネンチーニに対して、わずか32秒差の総合2位へとつけた。続く第11ステージでは、ネンチーニに1分6秒の差をつけられたが、それでも総合時間差は1分38秒。まだまだマイヨ奪取の可能性は十分あった。ところが・・・
ピレネー越えステージを終え、中央高地が舞台の第14ステージにおいて、エグア山を下る途中に崖から10m以上も転落。何とか一命こそ取り留めたものの、リヴィエールの短いプロ選手生活は、ここで事実上幕を閉じた。
転落の原因
[編集]当初リヴィエールが転落した原因は、リムの部分に油を注ぎすぎたことにあるとみられていたが、後日、リヴィエールが薬物を常用していた疑いが某新聞にて報じられ、これを受けてリヴィエールは、1958年以降、アンフェタミンなどの薬物を常用していた事実を認めた。ひいてはこのことが遠因になったと見られている。リヴィエールが引退を余儀なくされた翌1961年、アンクティルが入れ替わるようにして、ジェミニアーニが監督を務めるサン・ラファエルチームに移籍した。
脚注
[編集]外部リンク
[編集]- ロジェ・リヴィエール - サイクリングアーカイヴス