ロシア民主連邦共和国
ロシア民主連邦共和国(ロシアみんしゅれんぽうきょうわこく、ロシア語: Российская Демократическая Федеративная Республика)とは、1917年の十月革命前後にロシア臨時政府が制定し、翌1918年1月19日(ユリウス暦1月6日)に公布した、ロシア史最初の憲法における国家の形態である[1]。
経緯
[編集]憲法制定委員会は、アレクサンドル・ボゴレポフ (ru)、マクシム・ヴィナヴェル、ウラジーミル・ゲッセン (ru)、ウラジーミル・デリュジンスキー、セルゲイ・コトリャレフスキー (ru)、ウラジーミル・ナボコフ、ボリス・ノリデ (ru) など30人のカデットの法律家によって構成され、ニコライ・ラザレフスキーが委員長を務めた[2]。制憲委員会は10月14日から開かれたが、直後に十月革命が発生したため中断を余儀なくされ、最終的に憲法が完成を見たのは1919年のパリにおいてであった[2]。
制憲委員会で作成されたこの憲法は1918年1月6日の憲法制定議会召集に合わせて公布されたが、憲法制定議会は翌7日にボリシェヴィキの全ロシア中央執行委員会によって解体された[1]。
内容
[編集]国家元首たる大統領は、議会により選出され任期は1年間で、閣僚会議の監督と補佐を受けて行政権を行使するものとされていた[2](ただし、公式には1月6日までは臨時政府は君主制を廃止していない[1])。しかし同時に大統領には幅広い権能が与えられ、過去にロシア皇帝が手にしていたような軍事と外交に関する最高権力、閣僚の任免権も認められていた[2]。議会は帝政時代の国家評議会・ドゥーマと同様の二院制とされた(しかし、制憲委員会においても二院制支持者が11人、一院制支持者が7人と、その見解は分かれていた)[2]。
選挙権は満20歳以上の男女に与えられた[2]。この年齢制限は帝政時代よりも5年引き下げられたもので[2]、21歳や25歳を選挙人とする欧米諸国よりも低かった(臨時政府内のボリシェヴィキは18歳から選挙人とするよう提案していたが、これは退けられた)[1]。また、婦人参政権も欧米諸国に先立つものであった[1]。そして、世界で初めて軍人に対する議決権が認められた[1]。政教分離と世俗主義も宣言されていた[2]。
国家の形態については(フィンランドを含めた)ロシア国家の単一性・不可分性が強調され、その枠内において連邦制に基づく法的・宗教的自治が保障されていた[2]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f Гаранжа А. П. (2005). "Всероссийское Учредительное собрание о государственном устройстве страны" (журнал) (14–15) (Казанский федералист ed.). Казань: Казанский центр федерализма и публичной политики.
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引数は必須です。 (説明) - ^ a b c d e f g h i Смыкалин А. С. (2002). "Конституция Российской демократической Федеративной республики 1917 года" (журнал) (2(18)) (Чиновникъ ed.). Екатеринбург: УИУ РАНХиГС.
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