レナータ・フォン・エスターライヒ
レナータ・フォン・エスターライヒ Renata von Österreich-Teschen | |
---|---|
レナータと夫のヒェロニム・ラジヴィウ公爵、1909年 | |
全名 |
Remata Maria Coroline Raineria Theresia Philomena Desideria Macaria レナータ・マリア・カロリーネ・ライネーリア・テレジア・フィロメナ・デジデリア・マカーリナ |
称号 | オーストリア大公女 |
出生 |
1888年9月28日 オーストリア=ハンガリー帝国、ポーラ |
死去 |
1935年12月9日(47歳没) ポーランド、バリツェ |
配偶者 | ヒェロニム・ミコワイ・ラジヴィウ公爵 |
父親 | カール・シュテファン・フォン・エスターライヒ |
母親 | マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ=トスカーナ |
レナータ・フォン・エスターライヒ(Renata Erzherzogin von Österreich, 1888年9月28日 - 1935年12月9日)は、オーストリア皇帝家の分家テシェン公爵家の公女。貴賤結婚により皇族の身分を失った。全名はレナータ・マリア・カロリーネ・ライネーリア・テレジア・フィロメナ・デジデリア・マカーリア(Renata Maria Caroline Raineria Theresia Philomena Desideria Macaria)。
生涯
[編集]二重帝国海軍の提督を務めるカール・シュテファン大公と、その妻でハプスブルク=トスカーナ家出身のマリア・テレジア大公女の間の第2子、次女として、ポーラで生まれた。父の意向で姉妹と一緒に語学に特化した教育を受け、家庭教師によりドイツ語(母語)、イタリア語、英語、フランス語、ポーランド語を教わった。父の任地であるイストリア半島で育つが、父が大伯父アルブレヒト大公の遺産を相続した関係で、一家は1907年にガリツィアのザイブッシュに本拠を移した。
父はポーランドに王朝を樹立する野心を抱いており、娘たちをポーランド人大貴族の子息と縁組させようとした。レナータは1908年9月、ラジヴィウ家の一員であるヒェロニム・ミコワイ・ラジヴィウ公爵と婚約した[1]。ラジヴィウ家はポーランド最有力の貴族家門の1つだったが、君主家系でないためハプスブルク家とは身分が釣り合わず、貴賤結婚とされた。これにより、レナータは結婚に際して皇族の身分を放棄せざるを得なかった。2人の結婚式は1909年1月15日にザイブッシュ城内の礼拝堂で挙行された。
公爵夫妻は居城のバリツェ城で暮らし、6人の子供に恵まれた。夫妻の長男ドミニク・レイネル・ラジヴィウは、ギリシャ王女エイゲニアと結婚した。レナータは1935年に死去した。夫は10年後の1945年、第2次世界大戦直後に赤軍に逮捕され、ロシア軍の強制収容所で死去した。一家の所領は全て没収された。
脚注
[編集]- ^ ヒェロニムは作曲家マチェイ・ラジヴィウ公爵の曾孫。
参考文献
[編集]- McIntosh David, The Unknown Habsburgs, Rovall Royal Books, 2000.ISBN 91-973978-0-6
- Snyder, Timothy, The Red Prince: The Secret Lives of A Habsburg Archduke . Basic Books, 2008.ISBN 9780465002375