ルートヴィヒ・ツー・メクレンブルク
表示
ルートヴィヒ・ツー・メクレンブルク Ludwig zu Mecklenburg | |
---|---|
出生 |
1725年8月6日 神聖ローマ帝国 メクレンブルク=シュヴェリーン公領、グラーボウ |
死去 |
1778年9月12日(53歳没) 神聖ローマ帝国 メクレンブルク=シュヴェリーン公領、シュヴェリーン |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 メクレンブルク=シュヴェリーン公領、シェルフ教会 |
配偶者 | シャルロッテ・ゾフィー・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト |
子女 |
フリードリヒ・フランツ1世 ゾフィー・フリーデリケ |
家名 | メクレンブルク家 |
父親 | メクレンブルク=シュヴェリーン公クリスティアン・ルートヴィヒ2世 |
母親 | グスタフェ・カロリーネ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ |
ルートヴィヒ・ツー・メクレンブルク(Ludwig zu Mecklenburg, 1725年8月6日 - 1778年9月12日)は、メクレンブルク=シュヴェリーン公家の公子。1756年より公領の世継であった。初代メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ1世の父。
生涯
[編集]ルートヴィヒは、メクレンブルク=シュヴェリーン公クリスティアン・ルートヴィヒ2世(1683年 - 1756年)とその妻グスタフェ・カロリーネ(1694年 - 1748年、メクレンブルク=シュトレーリッツ公アドルフ・フリードリヒ2世の娘)の第3子、次男としてメクレンブルク=シュヴェリーンのグラーボウで生まれた[1]。
1756年に父が亡くなると、兄フリードリヒ2世が公位を継承し、兄に嗣子がいなかったためルートヴィヒが後継者に指名されたが、兄に先立ち1778年に死去した[1]。1785年に兄フリードリヒ2世が死去すると、ルートヴィヒの息子のフリードリヒ・フランツがメクレンブルク=シュヴェリーン公(後にメクレンブルク=シュヴェリーン大公)位を継承した。
結婚と子女
[編集]ルートヴィヒは1755年5月13日にシュヴェリーンにおいて、ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公フランツ・ヨシアスとアンナ・ゾフィア・フォン・シュヴァルツブルク=ルードルシュタットの娘シャルロッテ・ゾフィー・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト(1731年 - 1810年)と結婚した。2人の間には1男1女が生まれた[1]。
- フリードリヒ・フランツ1世(1756年 - 1837年) - メクレンブルク=シュヴェリーン公、後にメクレンブルク=シュヴェリーン大公
- ゾフィー・フリーデリケ(1758年 - 1794年) - デンマーク王子フレゼリクと結婚、デンマーク王クリスチャン8世の母
脚注
[編集]- ^ a b c Wigger, Friedrich (1885). “Genealogies of the Grand Ducal House of Mecklenburg”. Annals of the Association for Mecklenburg's history and archeology. vol 50. Schwerin. p. 295