ルートヴィヒ・アンツェングルーバー
ルートヴィヒ・アンツェングルーバー | |
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ルートヴィヒ・アンツェングルーバー(1885年) | |
誕生 |
Ludwig Anzengruber 1839年11月29日 オーストリア帝国ウィーン |
死没 |
1889年12月10日(50歳没) オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン |
墓地 | ウィーン中央墓地 |
職業 | 劇作家、小説家 |
国籍 | オーストリア |
ジャンル | 戯曲、小説、民衆 |
文学活動 | 写実主義 |
代表作 | 『キルヒフェルトの牧師』[1](1870年) |
主な受賞歴 | 『帰宅』で1887年のフランツ・グリルパルツァー賞を受賞 |
デビュー作 | 『キルヒフェルトの牧師』 |
配偶者 | マリア(Maria Herbich) |
親族 | 父ヨハン・アンツェングルーバー(オーストリアの作家) |
影響を受けたもの
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ウィキポータル 文学 |
ルートヴィヒ・アンツェングルーバー(オーストリア語:Ludwig Anzengruber、1839年11月29日 - 1889年12月10日)は、オーストリア帝国ウィーン出身の劇作家、小説家。
1870年に教会を批判した戯曲『キルヒフェルトの牧師』(Der Pfarrer von Kirchfeld)[1]を発表し、劇作家として大成功を収め[2]「ウィーン民衆劇の最後の劇作家」と呼ばれた[3]。
生涯
[編集]1839年11月29日、父ヨハン・アンツェングルーバーの元に生まれる。父のヨハンは『ベルトルト・シュヴァルツ』という作品で成功を収めた作家だったがルートヴィヒ・アンツェングルーバーが5歳の時に亡くなってしまう。アンツェングルーバーは父の後を次いでウィリアム・シェイクスピアやフリードリヒ・フォン・シラーなどの作品を読んで育ち、はじめ書店の店員として働いていたが腸チフスに罹患したため[4]、俳優に転身した[2]。
1869年には警察の書記を務める傍ら戯曲を書くようになり、翌年の1870年に教会を批判した『キルヒフェルトの牧師』[1]を発表し、劇作家としての名声を博した。その後は劇作家に転向し、『偽善農夫(Der Meineidbauer)』や『第四戒(Das vierte Gebot)』など、資本主義を攻撃し、民衆や農民を題材とした優れた戯曲を著した。
1885年には戯曲『帰宅(Heimg'funden)』を発表し、1887年にフランツ・グリルパルツァー賞を受賞した。
1889年12月10日、炭疽菌に罹り、命を落とす。満50歳であった。ウィーン中央墓地に墓がある。
作品
[編集]アンツェングルーバーの作品は、ドイツの劇作家であるフリードリヒ・ヘッベルの写実主義要素を受け継いでおり[2]、民衆や農民を題材にした戯曲が多く[4]、自然主義的な作風が見られる。戯曲の面では登場人物に方言を加え、性格描写に定評があり、特に喜劇の諧謔が特徴的であった。小説の面では不当な信仰を風刺し、民衆のキリスト教化を目的とした作品を書いた。また郷土文学としての特徴があるが、今日ではアンツェングルーバーの作品が読まれることは少ない[5]。
戯曲
[編集]- 1870年、『キルヒフェルトの牧師(Der Pfarrer von Kirchfeld)』 - 1870年11月5日にアン・デア・ウィーン劇場で初演
- 1871年、『偽善農夫(Der Meineidbauer)』 - 訳し方によっては『偽誓農夫』とも。1871年12月9日にアン・デア・ウィーン劇場で初演
- 1872年、『de:Die Kreuzelschreiber』 - 1872年10月12日にアン・デア・ウィーン劇場で初演
- 1873年、『Elfriede』 - 1873年4月24日にカール劇場で初演
- 1873年、『Die Tochter des Wucherers』 - 1873年10月17日にアン・デア・ウィーン劇場で初演
- 1874年、『de:Der G’wissenswurm』 - 1874年9月19日にアン・デア・ウィーン劇場で初演。[1]で閲覧可能(ドイツ語)。
- 1874年、『手と心(Hand und Herz)』 - 1874年12月31日にウィーン市立劇場で初演
- 1876年、『Doppelselbstmord』 - 1876年2月1日にアン・デア・ウィーン劇場で初演
- 1877年、『Der Faustschlag』
- 1877年、『第四戒(Das vierte Gebot)』
- 1877年、『Jungferngift』
- 1878年、『Die Trutzige』
- 1878年、『Alte Wiener』
- 1879年、『Aus'm gewohnten Gleis』
- 1880年、『Brave Leut' vom Grund』
- 1885年、『帰宅(Heimg'funden)』
- 1886年、『Stahl und Stein』
- 1887年、『Stahl und Stein』
- 1889年、『Der Fleck auf der Ehr』
- 1892年、『Brave Leut vom Grund』
小説
[編集]- 1877年、『Der Schandfleck』
- 1884年、『Dorf-Romane』
- 1885年、『シュテルシュタイン屋敷(Der Sternsteinhof)』
脚注・参考文献
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c 翻訳家によっては『キルヒフェルトの神父』などの表記揺れも見られるが、本記事では『キルヒフェルトの牧師』として統一する。
- ^ a b c 小栗 1972, p. 571.
- ^ アンツェングルーバーとは - 上田浩二文章著『世界大百科事典 第2版』、コトバンク、2016年10月6日閲覧。
- ^ a b 星野 1967, p. 614.
- ^ ヴーテノー 1971, p. 50.
参考文献
[編集]- 青木誠二文章著『万有百科大事典 1 文学』(小学館、1973年)
- 星野慎一文章著『大日本百科事典 1 あーいけ』(小学館、1967年)
- 小栗浩文章著『世界大百科事典 1 アーアン』(平凡社、1972年)
- 星野慎一文章著『グランド現代百科事典 2 アメリカシーイチノタ』(学習研究社、1983年)
- ラルフ・ライナー・ヴーテノー文章著『新潮世界文学小辞典』(新潮社、1971年)
関連項目
[編集]- 金田鬼一 - 『キルヒフェルトの牧師』の日本語翻訳者。ドイツ文学者。
- ユリウス・ビットナー - オーストリアの作曲家。「オペラ界のアンツェングルーバー」と呼ばれた
- カール・プロハスカ - オーストリアの作曲家。アンツェングルーバーの『四つの願い』をオペラ化した