ルパート・ブラブナー
ルパート・ブラブナ― | |
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生誕 |
1911年10月29日 イングランド・エセックス州エッピング |
死没 |
1945年3月27日 大西洋・アゾレス諸島近辺 |
所属組織 | イギリス海軍 |
最終階級 | 中佐 |
除隊後 | 庶民院議員(ハイス選挙区、1939–1945) |
ルパート・アーノルド・ブラブナー(Rupert Arnold Brabner,DSO DSC、1911年10月29日 - 1945年3月27日)は、イギリスの政治家、軍人。イギリス庶民院議員であり、第二次世界大戦においては、イギリス海軍に勤務し撃墜数5.5を公認されたエース・パイロットであった。
政治
[編集]エセックスのラフトンに生まれたブラブナーは、ケンブリッジ大学のフェルステッド・スクールとセント・キャサリンズ・カレッジで教育を受けた。彼は銀行家であり、 シンガー&フリードランダー社の取締役でもあった。
1937年にブラブナーはロンドン郡議会の西ルイシャム選出議員となり[1]、その死まで務めた。1939年7月20日からはケント州ハイス選挙区選出の庶民院議員に選ばれ[2]、後には政府のウィップ(議員への伝達役)に任命された。また、1944年には空軍次官に任命された。
彼と彼の妹のジーン・グウェネス(ともに第二次世界大戦中に死亡)は、ラフトンの実家に設置されたブルー・プラークによって記念されている[3]。ジーン・グウェネスは、セント・ジャイルズ病院の外科医であり、ロンドンへのドイツのV1飛行爆弾攻撃で死亡した[4]。
軍歴
[編集]ブラブナーは、第二次世界大戦のあいだイギリス海軍予備員の士官であり、艦隊航空隊にパイロットとして務めた。彼は第806飛行隊(1940年11月-1941年3月)、 第805飛行隊 (1941年初頭)に所属したのち、第801飛行隊に配属され、空母イラストリアス搭載、ヘロン航空基地(サマセット州ヨービルトン)駐留、空母イーグル、空母ヴィクトリアス、 空母インドミダブルへの搭載、そしてクレタ島と北アフリカ駐留を経験した。
1941年8月11日から1942年9月まで、ブラブナーは空母イーグル(1942年8月11日戦没)で第801飛行隊の指揮官を務めた。彼はハープーン作戦中の行動に対して殊功勲章を授与された[5]。イーグルの戦没後、彼は北アフリカ上陸作戦に向け空母部隊を率いるクレメント・ムーディー中将の幕僚に任じられた。 1943年、ブラブナーは第五海軍卿(海軍航空を扱う)の海軍補佐官(技術)となった。また1943年8月には、ペデスタル作戦(1942年)中の彼の行動により殊勲十字章を授与されている[6]。
ブラブナーは、その軍歴で敵機撃墜5機を公認されたほか1機を共同撃墜し、他に未確認撃墜記録1機を持つ戦闘機エースであった。
1945年3月、ピーター・ドラモンド空軍元帥と共にB-24リベレーターに搭乗してカナダに赴いたが、同機はアゾレス諸島で消息を絶った。33歳だった。彼はハンプシャー州リー=オン=ソレント戦没者墓地のベイ6・パネル2で記念されている[7]。
脚注
[編集]- ^ Who Was Who, 1941–50. p.131
- ^ "No. 34648". The London Gazette (英語). 25 July 1939. p. 5104.
- ^ Loughton Council Website – Blue Plaque – 47 Spareleaze Hill Archived 27 August 2008 at the Wayback Machine.
- ^ War Graves details – Jean Gwenneth Brabner
- ^ "No. 35687". The London Gazette (英語). 28 August 1942. p. 3817.
- ^ "No. 36143". The London Gazette (英語). 20 August 1943. p. 3785.
- ^ CWGC entry – Rupert Brabner
参考文献
[編集]外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Rupert Brabner
グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国議会 | ||
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先代 Philip Sassoon |
イギリス庶民院議員
(ハイス選挙区選出) |
次代 Harry Mackeson |
公職 | ||
先代 The Lord Sherwood |
イギリス空軍次官 1944–1945 |
次代 John Strachey |