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ルドルフ・スプラットマン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ワゲ・ルドルフ・スプラットマン

旧式の表記ではワゲ・スプラットマン (Wage Soepratman)、また通称では W・スプラットマン(W. Supratman) として広く知られた、ワゲ・ルドルフ・スプラットマン(Wage Rudolf Soepratman、1903年3月9日 - 1938年8月17日)は、プルウォレジョ県英語版に生まれ、スラバヤに没したインドネシアソングライターで、後にインドネシアの国歌となった『インドネシア・ラヤ』を作詞作曲した人物。インドネシア国家英雄のひとりである。

日本語では、スプラトマンとも表記される[1]

経歴

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旧50000ルピア紙幣に描かれたワゲ・ルドルフ・スプラットマン。

W・R・スプラットマンは、蘭印軍 (KNIL)の軍曹であった父ジョメノ・セネン・サストロスハルジョ (Djoemeno Senen Sastrosoehardjo) と、母はシティ・セネン・スプラットマン (Siti Senen. Soepratman) の間に、1903年3月9日プルウォレジョ県の村ソモンガリインドネシア語版[2]。生まれて数ヶ月後に父が出生登録をした際には、名にスプラットマンが加えられ、出生地はバタヴィアのメースター・コーネリス (Meester Cornelis)(後のジァティネガラ英語版)とされた。スプラットマンは9人きょうだいの7番目として生まれた。長兄(あるいは義兄)に、ルキイェム・スプラティヤ・ファン・エルディク (Rukiyem Supratiyah van Eldik) がいた。

ワゲ・スプラットマンは6歳のとき、チマヒのブディ・ウトモ小学校に入った。父親が退役した後、ワゲは姉ルキイェム (Rukiyem) を頼ってマカッサルへ赴き、1914年エウロペーシェ・ラゲレ校英語版で学ぶになった[3]。ルドルフという名は、オランダ人の生徒と対等に扱われるために、この学校にいた時から付け加えられたものであった[4]。しかし、その後ヨーロッパ系の血筋を引いていないことが露見し、彼は退学を強いられた[5]。その後、彼はマレー語の学校に移って勉強を続けた。やがて郷里に戻った彼は、ギターとバイオリンの演奏を学んだ。マレー語の学校を1917年に卒業したワゲは、オランダ語の課程に学んで1919年に卒業した[5]。その後は師範学校に学び、卒業後はマカッサルで補助教員となった[6]

1920年、17歳の誕生日に、兄ファン・エルディク (van Eldik) が、バイオリンを贈ってくれた。この年、ワゲは、ファン・エルディクとともにジャズ・スタイルのバンドであるブラック&ホワイト (Black & White) を結成した。彼はバイオリンを演奏した。彼らはマカッサルで、結婚式や誕生日パーティーの席で演奏していた[7]。また、教員、後には『新報 (Sin Po)』の記者として働きながら、作詞、作曲を続けた[1]

1952年に『Suara Rakyat』に発表された、改葬前のスプラットマンの墓の写真。

1933年7月、ワゲは病を自覚するようになった。11月には、『新報』の記者を辞職し、最初はチマヒに、次いでパレンバン、最後はスラバヤに住んだ。 1938年8月17日、午前1時にワゲは死去し、スラバヤのケンジェランインドネシア語版に埋葬された。 1956年3月13日、彼の遺骸はタンバク・セガラン・ウェタン墓地 (Tambak Segaran Wetan cemetery) に改葬された[8]

「インドネシア・ラヤ」

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ワゲが作詞作曲した楽曲「インドネシア・ラヤ」は、後にインドネシア国歌となった。1928年10月28日、ワゲはこの曲を第2回インドネシア青年会議の席でバイオリンを弾きながら披露した[1]。この曲はすぐさま、スカルノインドネシア国民党 (PNI)に採用されて広まった[9]1944年11月に歌詞の一部が修正され、旋律は、正式に国歌となった後、1958年に現行のものに編曲された。

1997年のインドネシアの切手に描かれたスプラットマン。

顕彰

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1971年、インドネシア政府はワゲに国家英雄の称号を贈り、Bintang Mahaputra Utama kelas III 勲章を授与した[8]。インドネシアの都市や町には、ワゲの名を街路に冠しているところがいくつかあり、例えば、W・R・スプラットマン通り (Jalan WR Soepratman) などと呼ばれている[10]

宗教

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ワゲは、アフマディーヤ派のムスリムであった[11][12]。一部の説では、ワゲはカトリックだったともいうが、1967年に出版された『Sedjarah Lagu Kebangsaan Indonesia Raya』(「国歌インドネシア・ラヤの歴史」の意)の中で遺族は、彼の亡骸がイスラム教の作法に則って洗体、埋葬されたと述べている[13]

脚注

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  1. ^ a b c 世界大百科事典 第2版『スプラトマン』 - コトバンク
  2. ^ Sularto & Yunarti 2010, p. 171
  3. ^ Hutabarat 2001, p. 3
  4. ^ Sularto & Yunarti 2010, p. 173
  5. ^ a b Hutabarat 2001, p. 4
  6. ^ Hutabarat 2001, pp. 4–5
  7. ^ Hutabarat 2001, p. 5
  8. ^ a b Sularto & Yunarti 2010, p. 176
  9. ^ The Muslim world: a historical survey. Modern times: Volume 4 - Page 307 H. Scheel, Gerhard Jaschke, H. Braun - 1981 "The party's emblem and the symbol of the future Free Indonesia were a red and white flag with a figure of a bull's head, and the hymn sung at its gatherings was Indonesia Raya ("Great Indonesia"), composed by Wage Rudolf Supratman "
  10. ^ Location & Businesses related to "Jalan Wr. Supratman"”. Streetdirectory. Streetdirectory. 2017年9月17日閲覧。
  11. ^ Oladipo, Dotun (2012年2月17日). “The cold war of faith between Hamadiyya and orthodox Muslims”. The Eagle Online. 2019年11月30日閲覧。
  12. ^ Al Makin (2012年8月16日). “Fatherland: Soil and water”. The Jakarta Post. http://www.thejakartapost.com/news/2012/08/16/fatherland-soil-and-water.html 2017年9月27日閲覧。 
  13. ^ Kasasengari 1967, p. 83

参考文献

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  • Hutabarat, Anthony C. (2001). Wage Rudolf Soepratman: Meluruskan Sejarah dan Riwayat Hidup Pencipta Lagu Kebangsaan Republik Indonesia "Indonesia Raya" dan Pahlawan Nasional. Jakarta: BPK Gunung Mulia. ISBN 978-979-687-037-0. https://books.google.com/books?id=WKO3ncloE14C 
  • Sularto, St.; Yunarti, D. Rini (2010). Konflik di Balik Proklamasi: BPUPKI, PPKI, dan Kemerdekaan. Jakarta: Penerbit Buku Kompas. ISBN 978-979-709-509-3. https://books.google.com/books?id=WKO3ncloE14C