ルイ=ジャン=フランソワ・ラグルネ
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ルイ=ジャン=フランソワ・ラグルネ Louis-Jean-François Lagrenée | |
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自画像 | |
生誕 |
1725年1月21日 フランス王国・パリ |
死没 |
1805年6月19日(80歳没) フランス帝国・パリ |
ルイ=ジャン=フランソワ・ラグルネ(Louis-Jean-François Lagrenée、1725年1月21日 - 1805年6月19日)は、フランスの画家である。歴史画を描き、在ローマ・フランス・アカデミーの校長などを務めた。弟の画家、ジャン=ジャック・ラグルネ(Jean-Jacques Lagrenée、通称: Lagrenée le jeune)と区別するため「Lagrenée l'aîné(年長のラグルネ)」とも呼ばれる。
略歴
[編集]パリで生まれた[1]。後に国王の筆頭画家になる、シャルル=アンドレ・ヴァン・ローの弟子になった。1744年から王立絵画彫刻アカデミーの学生になり、数年間ローマでも学び、1755年にフランスに戻った後、ルイ15世のもとで王立絵画彫刻アカデミーの会員となり[1]、1758年に教授となった。
1760年にロシア皇帝エリザヴェータに招かれ、サンクトペテルブルクに移った。前年に亡くなったルイ=ジョゼフ・ル・ロラン(Louis-Joseph Le Lorrain) が務めていた、ロシアの宮廷画家、サンクトペテルブルク美術アカデミーの校長の地位を引き継いだ[2]。2年後パリに戻り、王立絵画彫刻アカデミーの教授の仕事に戻り、1763年に弟とローマに移った。1781年に在ローマ・フランス・アカデミーの校長に任命され1787年までその職を続けた。
フランス革命後、ナポレオンの帝政が始まった後、パリのエコール・デ・ボザールの副校長やルーブル美術館の学芸員に任じられた。1804年にレジオンドヌール勲章(シュバリエ)を受勲した[3]が程なくして亡くなった。
作品
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"La Mort de la femme de Darius" (1785)
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"L'Amour des Arts ...."
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ピュグマリオーンとガラテイア(1781)
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(1765)
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マールスとヴィーナス(1770)