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ルイ・ド・ロレーヌ (1575-1621)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ルイ・ド・ロレーヌ
枢機卿
大司教区 ランス
着座 1605年
離任 1621年
聖職
枢機卿任命 1615年12月2日
個人情報
出生 1575年1月22日
ロレーヌ公国
死去 1621年6月21日
フランス王国
サント
両親 父:ギーズ公アンリ1世
母:カトリーヌ・ド・クレーヴ
紋章 ルイ・ド・ロレーヌの紋章
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ルイ3世・ド・ロレーヌフランス語:Louis III de Lorraine, 1575年1月22日 - 1621年6月21日)は、カトリック同盟のリーダーであったギーズ公アンリ1世カトリーヌ・ド・クレーヴの三男[1]ギーズ枢機卿(cardinal de Guise)といわれる。カトリックの首領であったギーズ公フランソワは祖父、ギーズ公クロードは曽祖父、ロレーヌ公ルネ2世は高祖父である。

生涯

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ルイの教会における地位は完全に名目上のものであった。ルイは叙階されたことはなく[2]、放散的な人生を送った。それにもかかわらず、1605年1月にランス大司教に任命され[3]、1615年12月2日に枢機卿に任命された。フランス王ルイ13世の不興を買い、1620年にバスティーユに投獄された[2]。1621年にユグノーの本拠地モントーバンを包囲する王の遠征に参加し、そこで猩紅熱に罹り死去した[4]

1611年に秘密裏にシャルロット・デ・エサール(マドモアゼル・ド・ラ・エー, Mademoiselle de La Haye)と結婚した[2]。2人の間には5子が生まれた。

  • シャルル・ルイ(1668年7月12日 オートゥイユで没) - シャリ修道院長、コンドン司教[2]
  • アシル(1615年頃 - 1648年 イラクリオン) - ロモランタン伯、カンディア包囲戦で戦死。アンナ・マリア・フォン・ザルム=ダウンと結婚[5]
  • シャルロット(1664年以前没) - リヨンのサン=ピエール女子修道院長[5]
  • アンリ・エクトール(1620年生)[3]
  • ルイーズ(1662年7月5日没) - 1639年10月24日にロド領主クロード・ポ(1642年8月3日没)と結婚[5]

脚注

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  1. ^ Bergin 1996, pp. 661–662.
  2. ^ a b c d Bergin 1996, p. 662.
  3. ^ a b Carroll 2009, p. 294.
  4. ^ Kettering 2008, pp. 200–201.
  5. ^ a b c Spangler 2016, p. 272.

参考文献

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  • Bergin, Joseph (1996). The Making of the French Episcopate, 1589-1661. Yale University Press. https://archive.org/details/makingoffrenchep00berg 
  • Carroll, Stuart (2009). Martyrs and Murderers: The Guise Family and the Making of Europe. Oxford University Press 
  • Kettering, Sharon (2008). Power and Reputation at the Court of Louis XIII: The Career of Charles d'Albert, duc de Luynes (1578-1621). Manchester University Press 
  • Spangler, Jonathan (2016). The Society of Princes: The Lorraine-Guise and the Conservation of Power and Wealth in Seventeenth-Century France. Routledge