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ルイス・サントップ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ルイス・サントップ
Louis Santop
ルイス・サントップ(1920年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 テキサス州タイラー
生年月日 1890年1月17日
没年月日 (1942-01-06) 1942年1月6日(51歳没)
身長
体重
6' 4" =約193 cm
240 lb =約108.9 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 捕手内野手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
  • フォートワース・ワンダーズ(1909年)
  • オクラホマ・モナークス(1909年)
  • フィラデルフィア・ジャイアンツ(1909-1910年)
  • ニューヨーク・リンカーン・ジャイアンツ
    (1911-1914,1915-1916,1918年)
  • ブルックリン・ロイヤル・ジャイアンツ(1914-1919年)
  • シカゴ・アメリカン・ジャイアンツ(1915年)
  • ヒルデール・デイジーズ(1917-1926年)
  • サントップ・ブロンコス(1927-1931年)
殿堂表彰者
選出年 2006年
選出方法 ニグロリーグ特別委員会による選出

ルイス・サントップ(Louis Santop Loftin, 1890年1月17日 - 1942年1月22日)は、1910~1920年代にアメリカ合衆国ニグロリーグで活躍していた野球選手。主なポジションは捕手テキサス州タイラー生まれ。右投げ左打ち。ニックネームは"Top"

来歴・人物

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プロの野球選手としての経歴は1909年からで、いくつかのチームを渡り歩いた後、1910年に当時ソル・ホワイトが監督をしていたニューヨーク・リンカーン・ジャイアンツに所属、そこで”スモーキー”ジョー・ウィリアムズや”キャノンボール”ディック・レディングといった伝説的な投手たちとバッテリーを組んでいた。サントップはその打力を売り物にし、1911年から1914年の打率は、それぞれ.470、.422、.429、.455であった。また1912年のある試合では、飛距離500フィート以上のホームランを放ったという。[1]

その後1915年から1917年頃まで、ブルックリンのロイヤル・ジャイアンツでホームランを量産したことで名声を得(本数等は不明)、その後フィラデルフィアにあるヒルデール・デイジーズに加わる。1917年にデイジーズがメジャーリーグの選抜チームと3試合を行った際、サントップはメジャーリーグ選抜の投手チーフ・ベンダーとジョー・ブッシュを相手に3試合で6安打を記録したという。1918年と1919年に第一次世界大戦で派兵された後、終戦後に再びデイジーズと高額な契約を結び現役復帰、1923年から1925年のデイジーズのリーグ3連覇にも貢献する。しかし1924年のニグロ・ワールドシリーズで致命的なエラーを犯したことをきっかけに、チームの正捕手の座をビズ・マッキーに奪われることになった。

1925年を最後に選手を引退し、その後フィラデルフィアで放送関係の仕事をしていた。時折バーテンダーなどもしていたそうである。1942年にフィラデルフィアで死去。2006年ニグロリーグ特別委員会によりアメリカ野球殿堂入り。

その長打力から、サントップを『黒いベーブルース[2]の元祖』という人もいる。ヒルデール在籍時の1920年、メジャーリーグ球団との試合で実際にベーブ・ルースと対戦した試合があり、その試合でルースが4打数ノーヒットだったのに対し、サントップは3安打を放ったそうである。

記録・表彰等

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  • メジャーリーグチームと対戦成績:打率.296(14試合)

脚注

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  1. ^ 当時はまだメジャーリーグでも飛距離の出るボールは使われておらず、柵超えの本塁打は殆どなかった時代である。
  2. ^ 同じくニグロリーグで強打を誇ったジョシュ・ギブソンの異名である。

出典・外部リンク

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