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リマウ作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

リマウ作戦(リマウさくせん)は、1944年10月に、英国陸軍のイバン・ライアン英語版中佐ら英濠軍の特殊部隊(Z Special Unit)が、日本軍が占領統治していた昭南特別市(シンガポール)の昭南港で、前年のジェイウィック作戦に続いて2度目の日本艦船爆破を計画した作戦。「リマウ」はマレー語で「虎」を意味するため、虎作戦とも呼ばれる。地元住民や日本の監視船に発見されて計画は未遂に終わり、日本軍との戦闘でライアン中佐らは戦死、隊員10人が捕虜となった。捕虜は1945年7月にシンガポールで開かれた日本軍の軍律裁判により全員処刑された。[1]

リマウ作戦

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西濠の基地でリマウ作戦に向けて2艘の"眠れる美女"を載せた小型船「ポンポン」号で訓練をするZ特殊部隊の隊員

1944年3月以降、前年9月のジェイウィック作戦の成功を受けてイギリスの特殊作戦執行部イバン・ライアン英語版中佐と作戦会議を重ね、シンガポールを攻撃対象とする2度目のゲリラ的な破壊活動「リマウ[2]作戦」の実行を決めた[3]。隊長のライアン中佐を含めて23人の隊員が作戦に参加した[3]

リマウ作戦では、攻撃目標とする船舶にリムペット(吸着爆弾)を取り付ける作業を超小型の特殊潜水艇[4]を用いて行い、潜水艦でシンガポールに接近した後、特殊潜水艇は電池性能に限界があるため、潜水艇を運ぶ船を現地調達する計画だった[3]

1944年9月14日[5]、ライアン中佐ら23人の決死隊員と超小型潜水艇の開発者で英国陸軍のチャップマン少佐は、西オーストラリア州・ガーデン島英語版の軍港[6]を潜水艦「ポーパス」で出港し、同月23日にメラパス島英語版に到着、中継基地を設営した[7]。ライアン中佐らは、メラパス島の南270キロにあるペジャンタン(Pejantan)島[8]周辺でマレー人のエンジン付きプラウ船(この地域にみられる快走帆船)を鹵獲して「ムスティカ(Mustika)」と名付け、以後この船で現地船を装って移動した[9][10]

その後、ライアン中佐はプラウ船のマレー人を陸上に釈放、また、無人と思っていたメラパス島にはヤシ栽培の島民がいた。彼らから警察に報告が届き、監視哨に連絡が行ったともみられている。[11]

作戦の失敗

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"リマウ作戦"の全ての座標を示した地図 - OSM
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同年10月5日、ライアン中佐はメラパス島に隊員4人を残し、残りの隊員19人で作戦決行のためムスティカ号でシンガポールへ出発した[12]。同月10日、カス(Kasu)島[13]近くで風待ちをしていたところ、同島にあった水上警察詰所の兵補に見咎められ、接近してきた警備艇を銃撃してマレー人の兵補3人を殺害することとなった[14]。ライアン中佐は計画の失敗と中止を宣言し、ゴムボートに乗り移った後、「ムスティカ」を爆破し沈没させた[15]

10月14日、ライアン中佐ら7人がメラパス島へ戻る途中で日本軍の情報を得ようとパンキル(Pangkil)島[16]に立ち寄った際に、島の酋長が日本軍に通報し、16日にソレ(Soreh)島[17]で日本軍の討伐隊の攻撃を受けてライアン中佐ら2人が銃撃戦の末に戦死、18日には銃撃戦で負傷した別の隊員2人がタパイ(Tapai)島[18]で死亡しているのが発見された[19][20][21]

死亡した4人と行方不明になった隊員1人を除く18人の隊員は、10月末にはメラパス島の基地に戻り、同年11月8日に潜水艦が迎えに来るのを待っていたところ、11月3日に、たまたま日本軍の小型の軍用機が機体のトラブルでビンタン島のキジャン(Kijang)に不時着する事故があり、事故の連絡を受けた日本軍が特殊部隊の関与を疑ってメラパス島を捜索、隊員を発見して銃撃戦となり、隊員2人が死亡した[22]

残る隊員16人はメラパス島を脱出してマポール(Mapur)島[23]に潜伏していたが、12月初旬になっても潜水艦と合流できなかったため、数人のグループに分かれて第2の基地があったポンポン(Pompong)島[24]を目指した[25]。しかし3人はボルネオ方面で日本軍との戦闘で死亡し[26]、12月下旬にポンポン島近くのボアジャ(Buaja)島[27]で3人[28]、セラジャール(Selajar)島[29]で1人(ペイジ中尉)が逮捕され[30]、この他の隊員6人も逮捕された[31][32]

こうしてリマウ隊員23人のうち10人が戦死し、10人が逮捕され、3人は行方不明となった[33][34]

軍律裁判

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日本軍は、1942年5月の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃の際に、戦死した特殊潜航艇の乗組員に対して、濠州側がその勇敢な行動を称賛し丁重な海軍葬を以て報いたことを意識して、捕虜となった隊員を厚遇した[35][36]

水上憲兵隊から報告を受けたシンガポールの軍司令部では、隊員を戦時国際法に反した犯罪者として軍律裁判で裁くか[37]、あるいは彼等の行為を戦時下の戦闘行為として認め、捕虜として収容所に送るかで意見が分かれたが、第7方面軍法務部の神谷春雄少佐は前者を主張し、事件を法的に再検証することになった[38]

1945年4月中に神谷少佐は再調査を終了し、「日本国旗を掲げ、連合軍軍人たる正規の軍装をせず、原住民の服装をして肌を黒く塗って偽装した「偽装裏切り行為(Perfidy Charge)」、日本占領地域内で写真撮影、ボーキサイト鉱山のスケッチを行った「スパイ行為」をしたこと等は、南方軍軍律第2条第1項第1節の『反逆、諜報活動の罪』の範疇に入る」と結論付けた[39]。軍司令部でも助命の機運が高まり、隊員に嘆願書の提出を促したが、隊員たちは軍法会議の決定に従うとしてこれを拒否した[40]

1945年7月3日[41]から第7方面軍の軍事法廷が開かれ、検察官の神谷少佐は、上記起訴理由で被告人10人全員の銃殺刑を求刑し、求刑どおり判決が下された[42]。論告求刑の中で検察官は、隊員は決死的行動を行った英雄であるとし、その勇敢な行動を称賛した[43]。日本では、シドニー湾攻撃を行った日本軍死者に対して英豪軍がとった丁重さに答えた態度でこの事件の捕虜らに応じたと語られることが多いが、オーストラリアでは通常の日本軍の行動に照らし、これを信じない者も多い[44][45](参照:「en:Operation Rimau」、「#戦犯調査」)

同月7日、パッシール・パンジャン英語版の森の中、ブキテマの高台の一角にある刑場で[46]10人の銃殺刑が執行された[47][45][48]

戦犯調査

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戦後の1946年9月、英軍ワイルド戦犯調査局長は、シンガポールを訪れたシンゲップ島の元アミール・シララビから「1944年12月に襲撃隊の10人がリンガ列島で捕えられ、シンゲップ島に捕虜として抑留された後、シンガポールに連行された」という話を聞き、同年10月にシンゲップ島に居残っていた憲兵隊を拘束した際、地元警察署が作成した入島記録で1944年12月18・19日に白人6人が入島し同月23日にシンガポールに送られ、12月28日に別の白人3人が入島し1945年1月8日にシンガポールへ護送されていたことを確認した[49]。またシトク島の憲兵詰所を捜索した際に押収した書類の中からリマウ隊員逮捕のメモを発見し、古田通訳を逮捕してリマウ作戦と軍律裁判の経緯について尋問した[50]

またワイルドは、第7方面軍法務部の神谷少佐が司令部の焼却命令に反して事務所に残していた日本軍の軍律裁判の公式記録を入手し、内容を吟味した[51]

その結果ワイルドは正式に古田を釈放し、オーストラリア陸軍本部に、事件を裁いた日本軍の裁判に違反は見られないため、「リマウ」の事件についてそれ以上訴追しない旨の報告を行った[52][53][54]

墓碑銘

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戦後、オーストラリアの戦略調査団は決死隊員の足取りを調査し、ジェイウィック作戦とリマウ作戦について1946年8月にオーストラリア陸軍大臣フォーデ英語版の声明として発表し、ジェイウィック作戦の参加者が進級、叙勲された[55][56]

ソレ島で戦死したライアン中佐とロス中尉の遺骸は、軍法会議で刑死した隊員の遺骸とともに、シンガポールのクランジ戦没者共同墓地に移葬された[57]。またシンガポールの聖ジョージ・ギャリソン教会英語版内に、ライアン中佐の夫人により記念碑が建てられた[58]

脚注

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  1. ^ この記事の主な出典は、遠藤(1996)および篠崎(1976) 196-203頁。
  2. ^ マレー語で「虎」の意味(遠藤(1996) 71頁)。
  3. ^ a b c 遠藤(1996) 67-74頁
  4. ^ 1942年5月の日本軍による特殊潜航艇によるシドニー港攻撃の際に、シドニー湾を襲撃して自爆した日本の特殊潜航艇を引揚げて、それを見本として魚雷を装備せず機雷設置を行うための潜水艇を開発したもので(篠崎(1976) 196頁)、本来の英名「Submergible Boat」から「Sleeping Beauty(眠れる美女)」の愛称で呼ばれていた(遠藤(1996) 69頁、篠崎(1976) 196頁)。
  5. ^ 遠藤(1996) 74-78頁。ブラッドリー(2001) 151,162頁では「9月11日」
  6. ^ 遠藤(1996)74-78頁、ブラッドリー(2001)151頁。ブラッドリー(2001)162頁の引用文中では「西オーストラリア州パース」。
  7. ^ ブラッドリー(2001)151-152,162頁、遠藤(1996) 74-78頁。
  8. ^ 北緯0度07分19秒 東経107度13分18秒 / 北緯0.121966度 東経107.221584度 / 0.121966; 107.221584 (ペジャンタン(Pejantan)島)
  9. ^ ブラッドリー(2001)152頁、遠藤(1996) 78-80頁
  10. ^ その後、潜水艦「ポーパス」は、11月8日以降にメラパス島に隊員を迎えに来ることを約し、ムスティカ号の元の乗組員を収容してチャップマン少佐の操舵でいったんオーストラリアへ戻り、ライアン中佐らはメラパス島へ戻った(ブラッドリー(2001)152頁、遠藤(1996) 78-80頁)
  11. ^ 篠崎(1976)P.197
  12. ^ 遠藤(1996) 81頁
  13. ^ 北緯1度04分25秒 東経103度49分26秒 / 北緯1.073507度 東経103.823762度 / 1.073507; 103.823762 (カス(Kasu)島)
  14. ^ 遠藤(1996) 84-86,145頁
  15. ^ 遠藤(1996) 86-87頁。このとき生き残ったマレー人の兵補が11日に事件をブランカン(Belakang)島(北緯1度08分59秒 東経103度53分06秒 / 北緯1.149705度 東経103.884879度 / 1.149705; 103.884879 (ブランカン(Belakang)島))の係官に連絡したが、係官から憲兵隊本部への連絡は2日ほど遅れたとされる(遠藤(1996) 90頁)。
  16. ^ 北緯0度49分54秒 東経104度21分34秒 / 北緯0.831541度 東経104.359517度 / 0.831541; 104.359517 (パンキル(Pangkil)島)
  17. ^ 北緯0度51分30秒 東経104度23分16秒 / 北緯0.858275度 東経104.387798度 / 0.858275; 104.387798 (ソレ(Soreh)島)
  18. ^ 北緯0度46分29秒 東経104度26分00秒 / 北緯0.774824度 東経104.433450度 / 0.774824; 104.433450 (タパイ(Tapai)島)
  19. ^ 遠藤(1996) 90-102,146頁。
  20. ^ ソレ島の銃撃戦では日本軍の兵士4名が戦死、数名が負傷した(遠藤(1996) 146頁)。
  21. ^ 残る隊員のうち2人はメラパス島へ戻り(遠藤(1996) 106-107頁)、1人は行方不明となって後に日本軍に逮捕された(遠藤(1996) 111頁)。
  22. ^ 遠藤(1996) 102-106,146-147頁。
  23. ^ 北緯0度59分23秒 東経104度49分44秒 / 北緯0.989750度 東経104.828796度 / 0.989750; 104.828796 (マポール(Mapur)島)
  24. ^ 北緯1度08分09秒 東経103度49分38秒 / 北緯1.135873度 東経103.827109度 / 1.135873; 103.827109 (ポンポン(Pompong)島)
  25. ^ 遠藤(1996) 106-108頁。潜水艦「ポーパス」でオーストラリアに戻っていたチャップマン少佐は、1944年10月16日に「潜水艦「タンタラス」英語版で隊員救出のため西オーストラリアのフリーマントル港を出港しメラパス島へ向かったが、隊員と合流できずに同年12月6日に帰港した(ブラッドリー(2001)152頁、遠藤(1996)107-108頁)。タンタラス号は攻撃的巡回も任務としており、「リマウ」隊員との待合せ予定日の11月8日になってもまだ魚雷等が残っていたため、救出の日程を一方的に11月21-22日に延期して攻撃的巡回を続けていた(ブラッドリー(2001)152-153頁、遠藤(1996)107-108頁)。帰港後の調査でチャップマン少佐が予定の救出の場所・日程を守っておらず、隊員の合図を見落とすなどの違反行為があったことが判明したが、隊員が日本軍に逮捕されたことが伝わると、違反行為の問題はうやむやになった(遠藤(1996) 216-218頁)。1964年になって、ある歴史研究家が本人にこの問題を追及したところ、チャップマンは自殺した(遠藤(1996) 216,218頁)。
  26. ^ 遠藤(1996) 109-110頁
  27. ^ 北緯0度10分37秒 東経104度13分21秒 / 北緯0.177083度 東経104.222593度 / 0.177083; 104.222593 (ボアジャ(Buaja)島)
  28. ^ このうち、負傷しながら逃亡していたマーシュ一等兵は12月末に逮捕されたが高熱で意識障害を起こし、翌1945年1月11日にシンガポールの憲兵隊本部の医務室で死亡した(遠藤(1996) 110頁)
  29. ^ 南緯0度17分58秒 東経104度26分54秒 / 南緯0.299376度 東経104.448395度 / -0.299376; 104.448395 (セラジャール(Selajar)島)
  30. ^ 遠藤(1996) 10-111頁
  31. ^ 遠藤(1996) 111,147-148頁
  32. ^ ブラッドリー(2001)163頁および篠崎(1976)198頁では、生存者はシンゲップ英語版警察署から昭南水上憲兵隊(シンガポールのケッペル波止場にあった(篠崎(1976) 41頁、遠藤(1996) 143頁))に護送された、としており、遠藤(1996)はシトク(Setoko)島(北緯0度56分39秒 東経104度03分44秒 / 北緯0.944138度 東経104.062178度 / 0.944138; 104.062178 (シトク(Setoko)島))に連行されたとしている(148頁)。
  33. ^ 遠藤(1996) 111頁
  34. ^ 戦後チモール方面で捕まった日本兵の戦犯裁判の記録から、行方不明となった隊員3人はなおも南下を続け、カタポンガン島で高熱で意識障害を起こしたウォーン一等兵が脱落し、その後意識を回復してマカッサルへ下ったものの、日本軍に捕獲され、他の連合国軍の捕虜と共に第二南海方面艦隊付きの軍医の生体実験の実験台になり、スラバヤの海軍病院で死亡したこと、ウイラーズドルフ准尉とペイス上等兵の2人は、ロマン(Romang)島(南緯7度32分38秒 東経127度24分12秒 / 南緯7.543807度 東経127.403273度 / -7.543807; 127.403273 (ロマン(Romang)島))で日本軍に捕えられ、拷問にかけられた後放置されて死亡していたことが分かっている(遠藤(1996) 111-113頁)。
  35. ^ 篠崎(1976) 199頁。
  36. ^ 捕虜6人を迎えた水上憲兵隊の隊長は、身なりを整えさせるなど異例の対応を行い、第7方面軍から通訳として派遣されてきた古田博之の助言を受けて丁寧な訊問を行い、初期調査は2ヶ月という異例の長さで行われた(遠藤(1996) 142-159頁)。水上憲兵隊での初期調査の後、1945年3月に隊員はオートラム刑務所に移されたが、ここでも他の囚人や捕虜とは別の特別室に移され、書籍や甘味、特別食が与えられ、世話係として古田通訳がつけられた(篠崎(1976)199頁、遠藤(1996)142-159,194頁)。
  37. ^ その場合、隊員は間違いなく死刑になると予想された(遠藤(1996) 165頁)
  38. ^ 遠藤(1996) 159頁
  39. ^ 5月末に南方軍総司令部の法務部長・日高少将の承認を受け、起訴が決定したため、軍律裁判の準備が進められた(遠藤(1996) 159-165頁)
  40. ^ ブラッドリー(2001) 166頁、篠崎(1976)199頁
  41. ^ ブラッドリー(2001) 163頁および篠崎(1976) 199頁では7月5日
  42. ^ ブラッドリー(2001) 163-164頁、遠藤(1996) 167-193頁、篠崎(1976) 199-200頁
  43. ^ ブラッドリー(2001) 163-164頁、遠藤(1996) 190-192頁、篠崎(1976) 199-200頁
  44. ^ Operation Rimau What went wrong”. Australian Bunker & Military Museum Pty. Ltd.. 2023年1月1日閲覧。
  45. ^ a b 古田通訳の戦後のインタビューによると、処刑の方法は報告上は銃殺刑とされたが、実際には斬首されていた(遠藤(1996) 197-199頁)。
  46. ^ 篠崎(1976) 200-201頁によると「ブキテマ路英語版から西へ入るレホマトリー(Reformatory)路(現クレメンティ路英語版)の少年院の裏庭、ゴムのまだらな丘の上で」
  47. ^ 遠藤(1996) 193-201頁、篠崎(1976) 200-201頁
  48. ^ 処刑の数日後、憲兵隊の1人が刑場の片隅に「虎工作隊終焉の地」と書かれた簡素な碑を立てた(遠藤(1996) 196頁)。
  49. ^ ブラッドリー(2001) 158-161頁
  50. ^ 遠藤(1996) 139-142,202-205頁
  51. ^ 遠藤(1996) 167-168頁
  52. ^ 遠藤(1996) 203-206頁
  53. ^ その後ワイルドは古田に通訳を依頼し、1946年1月に始まったシンガポールでのBC級戦犯裁判でも古田に通訳を依頼している(遠藤(1996) 206頁)。
  54. ^ ブラッドリー(2001) 162頁のワイルドの手記では、日本人関係者のうち1人は監視の網をくぐって脱走し、降伏のときに自殺したとされている。
  55. ^ 篠崎(1976) 202頁
  56. ^ リマウ作戦については隊員全員が死亡しており、証言者が不在だったため勲功は行われなかった(篠崎(1976) 202頁)。
  57. ^ 篠崎(1976) 201頁
  58. ^ 篠崎(1976) 202-203頁

参考文献

[編集]
  • ブラッドリー(2001): ジェイムズ・ブラッドリー(著)小野木祥之(訳)『知日家イギリス人将校 シリル・ワイルド-泰緬鉄道建設・東京裁判に携わった捕虜の記録』明石書店、2001年8月。
  • 遠藤(1996):遠藤雅子『シンガポールのユニオンジャック』集英社、1996年。
  • 篠崎(1976):篠崎護『シンガポール占領秘録-戦争とその人間像』原書房、1976年。

関連項目

[編集]