ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ
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(リッダー・ホイセン・フォン・カッテンダイケから転送)
ウィレム・ヨハン・コルネリス・リデル・ホイセン・ファン・カッテンディーケ(Willem Johan Cornelis ridder Huijssen van Kattendijke、1816年1月22日 - 1866年2月6日)は、オランダの海軍軍人、政治家。
日本においては単にカッテンディーケ、カッテンダイケ、カッテンデイケ、カッテンデーケなどと記されることが多いが、本来の姓は「ホイセン・ファン・カッテンディーケ」で、「リデル」は騎士爵の称号である。
功績
[編集]1857年(安政3年)9月21日、幕末に徳川幕府が発注した軍艦ヤーパン号(後の咸臨丸)を長崎に回航し、幕府が開いた長崎海軍伝習所の第1次教官ペルス・ライケンの後任として第2次教官となる。勝海舟、榎本武揚などの幕臣に、航海術・砲術・測量術など近代海軍教育を精力的に行った。 2年後の1859年(安政5年)、長崎海軍伝習所は閉鎖となり帰国。
1861年、オランダ海軍大臣となり、一時は外務大臣も兼任した。
日本滞在時の回想録『長崎海軍伝習所の日々』(水田信利訳、平凡社東洋文庫)が出されている。その回想録の中で、日本の子供の態度についてこう記している。
子供たちへの深い愛情を、家庭生活の全ての場面で確認することができる。見ようによっては、日本人は自分の子供たちに夢中だとも言える。親が子供に何かを禁じるのは、ほとんど見たことがないし、叱ったり罰したりすることは、さらに稀である。(『長崎海軍伝習所の日々』〈水田信利訳、平凡社東洋文庫〉より)
西洋では子供を厳しくしつけるために鞭打つこともあった。西洋人の目では日本の家庭での子供への接し方が自分たちとは大きく異なっていると見えていた。
影響
[編集]カッテンディーケの教育を受けた勝海舟の立案によって、1864年(元治元年)に西洋式の海軍士官養成機関・海軍工廠である神戸海軍操練所が設立された。 1859年帰国後も勝海舟とは文通を続けた。
参考文献
[編集]- カッテンディーケ『長崎海軍伝習所の日々』 水田信利訳、平凡社〈東洋文庫〉、初刊版1964年。オンデマンド版2003年
- 田辺雅文『オランダ 栄光の“17世紀”を行く』藤塚晴夫写真、130頁。「旅名人ブックス」日経BP企画、2005年ほか。ISBN 4-86130-116-5
関連項目
[編集]- ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト
- フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
- アントニウス・ボードウィン
- ヤン・ドンケル・クルティウス(最後のカピタン:オランダ商館長)
- ヘルハルト・ペルス・ライケン 初代教官団長
- ヘンドリック・ハルデス ヤーパン号で共に来日し、長崎製鉄所の建設を監督。
- 日蘭関係
- 明治維新以前に日本に入国した欧米人の一覧