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リチャード・ユースデン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

リチャード・ユースデン英語: Richard Eusden1830年 ‐ 没年不詳)は、幕末に来日したイギリス外交官である。

経歴・人物

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1861年文久元年)、初代箱館(函館)イギリス領事館の初代領事であったクリストファー・ホジソンが突然の解任により離日したため、副領事代理として夫人らと共に来日した。これは数か月のいわゆる代理領事であり、後任のヴァイス(生麦事件時の横浜領事)が着任した[1]ため、職を離れた。在職中の万延元年(1860年)にオランダ人の殺人事件が起こると、旧暦2月5日に横浜へ赴いて神奈川奉行(竹本図書頭正雅と松平石見守康直)と対処方法を合議した[2]。竹本、松平は翌日、酒井隠岐守忠行を加えた幕府側としてオランダのファン・ポルスブルック副領事と面談している[3]

その後、一旦帰国した。1865年慶応3年)末にヴァイスがアイヌ人骨盗掘事件に関与したとして解任され、エイベル・ガウワーが領事として着任し事件の事後処理を行った。ガウワーが事件処理を終えたのち、1867年(慶応3年)6月、ユースデンが再来日し代理領事とされたが、同年中に正式な領事となった。翌年、戊辰戦争蝦夷共和国(旧幕府勢力)の樹立に遭遇し、外国人保護などに奔走した。また、蝦夷共和国の基盤が各国の評価よりも実は脆弱である、という報告を、江戸のイギリス公使ハリー・パークスに送っている。1871年(明治4年)まで領事職を勤めた。

その後、1873年(明治6年)6月から1880年(明治13年)10月まで、三度目の函館領事を勤めた。前回以降、交渉相手は江戸幕府(箱館奉行所)から明治新政府(北海道開拓使函館支庁)に代わっているが、ユースデンはどちらとも友好的にこなしたようである。

明治維新後の1872年(明治5年)には夫人や親交のあった渡辺熊四郎と共に「函館公園」の開発計画に携わった。計画は予定通り実行され、工事責任者であった浅田清次郎役人農民らと共に工事を始めた。この公園は7年後の1879年(明治12年)11月3日に開園した。

ユースデン夫妻はこの公園の工事中に毎年25円の寄付を行い、鶴岡学校の創立に携わるなど函館の街の活性化に貢献した。開園の翌1880年(明治13年)に帰国した。小柄な領事(consul)であったことから「豆コンシロー」と呼ばれて親しまれた[4]

出典

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  • デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『ユースデン』- コトバンク
  • 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞出版)『ユースデン』- コトバンク
  • 東京大学史料編纂所 編「104 6月23日 江戸在勤英国副領事事務取扱ユースデン書翰」『幕末外国関係文書之24(安政六年六月~同年七月)』東京大学出版会〈大日本古文書〉、1985年10月、167頁。doi:10.11501/12210974https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001776446 ISBN 4-13-091374-3東京大学昭和28年刊の複製再刊。
  • 東京大学史料編纂所 編『幕末外国関係文書之35(万延元年二月)』東京大学出版会〈大日本古文書〉、1986年4月、78,195頁。doi:10.11501/12209233https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I0000018037152024年1月19日閲覧 ISBN 4-13-091385-9万延元年庚申 耶蘇紀元千八百六十年(1860年)
    • 「27 2月5日 横浜表対話書 神奈川奉行竹本図書頭正雅ならびに同松平石見守康直と江戸在勤英国副領事代理ユースデンと 蘭人殺害につき取計方の件」
  • 斎藤与一郎 ほか「22 豆コンシロー、ユースデン―アーチと花束―遺愛女学校の起り―内藤鳴雪の命名―ミス、ハンプトンとミス、デカルソン」『非魚放談』函館郷土文化会、1957年、66頁。 国立国会図書館デジタルコレクション、NDLJP:2997477

脚注

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  1. ^ 生麦事件の事件処理の不手際により左遷された。
  2. ^ 東京大学史料編纂所 編纂 1986, p. 78
  3. ^ 東京大学史料編纂所 編纂 1986, p. 113
  4. ^ 斎藤 1957, p. 66.

外部リンク

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