リチャード・ホール (画家)
リチャード・ホール Richard Hall | |
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生誕 |
1860年4月18日 ポリ |
死没 |
1942年6月23日 (82歳没) ブエノスアイレス |
リチャード・ホール(Richard Hall、1860年4月18日 – 1942年6月23日)は、フィンランド生まれの画家。フランスやアメリカ、アルゼンチンで働いた。肖像画などで知られている。
略歴
[編集]フィンランド南西部サタクンタ県のポリで生まれた。父親はイギリス人の実業家で、祖父が1800年代の初めにフィンランドに移住してきた家系であった。その後、一家はヘルシンキに移った後、1867年にロンドンに移った。15歳の時、家族とストックホルムに移り、ストックホルムのスウェーデン王立美術院に入学した。ゲオルク・フォン・ローゼンやアーギュスト・マルムストレムといった画家たちに学び、エドヴァルド・ペルセウスの画塾でも学んだ[1][2]。
アカデミーでいくつかの賞を受賞し、リッカルド・ベリやオスカル・ビョルク、ブルーノ・リリエフォッシュやアンデシュ・ソーンといった同世代のスウェーデンの画家たちと交流した[3]。
美術院を卒業後、パリに修行に出て、リッカルド・ベリとスタジオを共有し、ジャン=ポール・ローランスやラファエル・コラン、ジャン=ジョセフ・バンジャマン=コンスタンといった画家に学んだ。パリではアルベルト・エデルフェルトやヴィッレ・ヴァルグレン(Ville Vallgren)といったフィンランド出身の美術家とも知り合った。はじめ風俗画を描いていたが、上流階級の人々の肖像画を専門とするようになった。1883年からパリのサロンに作品を出展し、パリのジョルジュ・プティの画廊でも作品を展示した[1]。
1881年に結婚し、2人の子供が生まれ、ブルターニュで6年ほど暮らしたが、1891年に妻は亡くなった。1906年に再婚する[1]。
1902年にアメリカの富豪の息子、ウィリアム・キッサム・ヴァンダービルトに招かれてニューヨークに移り、ヴァンダービルト家の人々やニューヨークの上流階級の人々の肖像画を描いた[1]。1903年と1907年にニューヨークのノードラー商会の画廊で作品を展示し、1904年と1905年にはロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの展覧会に出展した。生まれ故郷のフィンランドで作品を展示したのは1909年の一度だけであったが、両親と会うためにしばしばフィンランドを訪れた。[1][4]
1915年にアルゼンチンに移住し、リゾート地のマル・デル・プラタに住んだ。アルゼンチンでは絵画の他に、「El Hogar」、「El Mundo」といった雑誌や新聞を発行していアルゼンチンの出版社(Editorial Haynes)のためにイラストレーターとして働いた。1942年にアルゼンチンのブエノスアイレスで亡くなった。
作品
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縫物をする若い女性 (1913)
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弦楽器を持つ少年
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軍人の肖像画
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ブルターニュの室内で働く女性
参考文献
[編集]- ^ a b c d e “Richard Hallia haastattelemassa” (フィンランド語), Uusi Suometar (Finnish National Library): pp. 11–12, (24 October 1909) 30 June 2017閲覧。
- ^ “Richard Hall” (スウェーデン語). Konstnärslexikonett Amanda. 30 June 2017閲覧。
- ^ Hall, Mauri R. (28 September 1975), “Richard Hall Porin Yrjönkadulta kansainväliseen maineeseen” (フィンランド語), Satakunnan Kansa (Pori Art Museum): pp. 8 30 June 2017閲覧。
- ^ “An Anglo-French Portrait Painter”, New York Times, (23 December 1906) 30 June 2017閲覧。