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ラ・ブルゴーニュ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ラ・ブルゴーニュ
「ラ・ブルゴーニュ」(1895年頃)
基本情報
船種 オーシャン・ライナー
所有者 大西洋横断総合会社
建造所 ラ・セーヌ=シュル=メール地中海造船所
経歴
進水 1885年10月8日
処女航海 1886年6月19日
最後 1898年7月4日に衝突事故で沈没
要目
総トン数 7,395トン
長さ 150.7 m
15.9 m
推進器 スクリュー1軸推進
速力 17ノット
旅客定員 一等客390人
二等客65人
三等客600人
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Cromartyshire

ラ・ブルゴーニュ (SS La Bourgogne) はフランスのオーシャン・ライナーである。1898年に沈没し549人が死亡したが、乗員の48%が生還したのに対し乗客は13%しか生還しなかったことで有名となった[1]

建造

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同船は大西洋横断総合会社(フレンチライン)へ引き渡すため、1885年にラ・セーヌ=シュル=メール地中海造船所で建造された[2]。総トン数7,395トン、全長494.4フィート (150.7 m)、全幅52.2フィート (15.9 m)であった。また2本の煙突、4本のマストを有し鉄鋼製、1軸推進で速力は17ノット (20 mph)であった。定員は一等客390人、二等客65人、三等客600人であった。

船歴

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1885年10月8日に進水し、1886年6月19日にル・アーヴルからニューヨークまでの処女航海を行った。1886年には、「ラ・ブルゴーニュ」はル・アーヴル-ニューヨーク間の航路を7日余りで航行した。これにより同社はニューヨークの郵便事業で首位となり、大西洋横断記録を競うきっかけになった。1896年2月にはアメリカ海岸沖でアトラス汽船会社の蒸気船「アイルサ」 (Ailsa) と衝突し沈没させている。1897~1898年に4段膨張機関を装備しマストを2本に減らした。

沈没

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1898年7月4日の午前5時直前、セーブル島の南沖60海里で濃霧の中イギリスの帆船「クロマーティシャイア」 (Cromartyshire) と衝突し沈没した[3][4]。「クロマーティシャイア」の船長オスカー・ヘンダーソンは霧笛を鳴らしながら航行していたところ、他船の汽笛を聞いたが方位を確定できず「ラ・ブルゴーニュ」の右舷側中央部に衝突した。なお、衝突した区画にいた大半の乗客は眠っていた[3]。衝突箇所に隣隣する区画もすぐに満水となったが、右舷側の救命ボートは損傷しており、さらに船が大きく傾いたため左舷側の救命ボートを降下することも困難になった[3]

当時、乗客506人と乗員220人が乗船しうち549人が死亡したが、その中にはトルコ人レスラーのユースフ・イスマイル (Yusuf İsmail) 、アメリカ人指導者/彫刻家のエミール・H・ワーツ (Emil H. Wuertz) 、アメリカ人画家のデー・スコット・エヴァンス 、フランスの画家、音楽家、レオン・プルトー、アルメニア正教会の司祭のステパン・デア・ステパニアン牧師 (Rev. Stepan Der Stepanian) とその妻および3人の子供[5]、3人のボストン交響楽団員が含まれていた。生存者はわずか173人であったがうち乗客は70人未満であり、女性は1人のみが救助され、子供は全員死亡した。沈みゆく船から脱出の際、大混乱が発生し、救命ボートの取り合いが起こったが、船員は乗客を助けようとはせず、そればかりか乗客が救命ボートに乗り込もうとするのを阻止しようとした。この行為は大いに非難を浴びた[6]。生き残った乗員はニューヨークに到着するまで警察の保護が必要であった[1]

脚注

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  1. ^ a b Looker, Janet (2000). “Disgrace”. Disaster Canada. Lynx Images. pp. 38–39. ISBN 1-894073-13-4 
  2. ^ Eugene Waldo Smith (1978). Passenger ships of the world, past and present (2nd ed.). G. H. Dean. p. 139 
  3. ^ a b c Marine Engineering: August 1898, p. 24.
  4. ^ 210 US 95 George Deslions vs. La Compagnie Generale Transatlantique, http://openjurist.org/210/us/95/george-deslions-v-la-compagnie-generale-transatlantique
  5. ^ Ashjian, Arten (1999). 19th Century Pioneer Armenian Churchmen in America: Profiles of the First Ten (1889-1899). Diocese of the Armenian Church of America. pp. 30 
  6. ^ Los Angeles Herald 7 July 1898”. California Digital Newspaper Collection(カリフォルニア大学). 2014年12月8日閲覧。

参考文献

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外部リンク

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座標: 北緯43度00分00秒 西経65度36分00秒 / 北緯43.0000度 西経65.6000度 / 43.0000; -65.6000