ラ・フロンド
1898年1月1日付『ラ・フロンド』紙 | |
種別 | 日刊紙 (1903年から廃刊まで月刊紙) |
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判型 | ベルリナー判 |
設立者 | マルグリット・デュラン |
編集者 | セヴリーヌ |
編集長 | マルグリット・デュラン |
設立 | 1897年 |
政治的傾向 | 共和派、反教権主義、フェミニズム |
言語 | フランス語 |
廃刊 | 1905年 |
本社所在地 | フランス 14 rue Saint-Georges (パリ9区) |
発行数 | 50,000部 (最盛期の購読者数) |
『ラ・フロンド』(La Fronde)は、フランスの女優、ジャーナリスト、フェミニストのマルグリット・デュランが女性解放運動の一環として1897年に創刊した日刊紙であり、世界で初めて執筆から校正、印刷まですべて女性が行うフェミニスト新聞である。第1号は1897年12月9日に刊行され、1903年から月刊紙になり、1905年に経営難と内部対立により廃刊となった。
概要
[編集]新聞名の意味
[編集]フロンド (fronde) は本来、石弓(カタパルト、投石器)を表し、絶対王政の確立につながった17世紀の貴族の反乱「フロンドの乱」以降、「批判、反抗、反逆、反乱、暴動」の意味で使われるようになった。したがって、「ラ・フロンド」は女性の反乱の意味である[1]。
歴史
[編集]『ラ・フロンド』紙誕生のきっかけは、1896年、『フィガロ』紙の記者であったマルグリット・デュランが、レオン・リシェが1882年11月に設立し、ヴィクトル・ユーゴーが初代名誉会長を務めたフランス女性の権利連盟がパリで開催した国際女性会議(マリア・ポニヨン会長)を取材したことである。『フィガロ』紙は女性解放運動について多少の嘲笑を込めたユーモラスな記事を掲載したいと思っていたが[2]、実際にこの会議を取材したデュランは、嘲笑するどころか、逆に、女性の権利のために闘う人々の「勝利に貢献することを社会的義務と考え」、「女性自身が女性の利益を守るために」と新聞を作る決意をした[3]。
編集委員、コラムニスト、寄稿者はもちろん、校正や印刷もすべて女性のみで行った。宣伝ポスターを制作したのはクレマンティーヌ=エレーヌ・デュフォーである。デュランはこれについて、当時は「たとえ事務員としてでも男性が関与していると、実際には男性が記事を書いている」と疑われるような時代であったため、調査報道や植字など従来「男の仕事」とされていた分野も含めて女性に職業能力があることを実証したかったと説明している[3]。
『ラ・フロンド』紙はカトリック勢力に反対する反教権主義・共和派の立場から、女性労働問題を中心に女性の権利・地位向上に関する様々な問題を取り上げ、パリで女性問題に関する国際会議が開催されたときには事務局を務めた[3]。
『ラ・フロンド』紙は「ペティコートの時代」と呼ばれ、最盛期には5万人の読者を得た[4]。
『ラ・フロンド』紙は、1932年に設立されたフェミニズム資料館「マルグリット・デュラン図書館」(パリ市立図書館)が所蔵している。
編集委員
[編集]各界を代表する女性たちが編集委員を務めた[5]。
- クレマンス・ロワイエ - 女性初のソルボンヌ大学教授、科学者。
- ジャンヌ・ショーヴァン - 女性初のパリ公認弁護士。
- ポーリーヌ・ケルゴマール - 女性初の公教育審議会委員。
- ジャンヌ・ロワゾー - 女性作家として最初にレジオンドヌール勲章を受けた。
- マリア・ヴェローヌ - 女性で初めて重罪院で弁護した弁護士、社会改革運動家。
- セヴリーヌ - 女性初の調査報道記者
主な寄稿者
[編集]編集委員以外の主な寄稿者:
- マルセル・ティナイエール - 反教権主義的な小説で知られる作家。
- リュシー・ドラリュー=マルドリュス - 作家、歴史家、彫刻家、画家。
- ユベルティーヌ・オークレール - 『女性市民』紙を創刊した女性参政権運動家。
- アドリエンヌ・アヴリル・ド・サント=クロワ - 慈善活動家、女性参政権運動家、廃娼運動家。
- エレーヌ・セー (Hélène Sée) - 女性初の政治記者[6]。
- アレクサンドラ・ダヴィッド=ネール - 『チベット魔法の書』[7]を著した探検家。
- ルネ・ド・ヴェリアーヌ - 彫刻家。
- マドレーヌ・ペルティエ - フランス初の女性精神科医、新マスサス主義フェミニスト。
- ネリー・ルーセル - ジャーナリスト、新マルサス主義フェミニスト。
- クロティルド・ディサール - ジャーナリスト、『フェミニスト評論』創刊者。
- オデット・ラゲール - 教員、女性参政権運動家。
- マリア・ポニヨン - ジャーナリスト、女性解放運動家。
- ドロセア・クルンプケ - アメリカ合衆国の天文学者、画家アンナ・クルンプケの妹。
- アリス・ラ・マジエール - ジャーナリスト、作家、社会主義政治活動家。
- ガブリエル・プティ - 社会主義、反教権主義、新マルサス主義フェミニスト。
- ポール・マンク - ジャーナリスト、作家、講演家。
- アリーヌ・ヴァレット - 教員。
- マルク・ド・モンティフォー - 作家、自由思想家。
脚注
[編集]- ^ “Définition : Fronde, frondeur” (フランス語). www.toupie.org. 2019年7月17日閲覧。
- ^ Marie-Aude Bonniel (2016年3月7日). “Il y a 155 ans naissait Marguerite Durand, journaliste féministe engagée” (フランス語). FIGARO. 2019年7月17日閲覧。
- ^ a b c Christine Bard, Sylvie Chaperon (2017) (フランス語). Dictionnaire des féministes. France - XVIIIe-XXIe siècle. Presses Universitaires de France
- ^ Pierre Ancery (2018年1月8日). “C'était en 1897. "La Fronde", premier quotidien féministe au monde, était ridiculisé” (フランス語). L'Obs 2019年7月17日閲覧。
- ^ 間野嘉津子「世紀末文化とジェンダー ― 日刊紙〈ラ・フロンド〉と新聞記者セヴリーヌに関する一考察」『大阪経大論集』第55巻第1号、2004年5月。
- ^ Albert Algoud, Christine Kern (2019年1月13日). “Marguerite Durand, fondatrice du premier quotidien féminin : La Fronde” (フランス語). www.franceinter.fr. 2019年7月17日閲覧。
- ^ A・デビッドニール著『宇宙の糸に紡がれて ― チベット魔法の書 ―【秘教と魔術】永遠の今に癒される生き方を求めて』林陽訳、徳間書店、1997年。邦訳は他に、『パリジェンヌのラサ旅行』中谷真理訳、平凡社 (東洋文庫)、1999年) がある。