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ラルディ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ラルディ
LHARDY
ラルディ
ラルディのエントランス(2009年)
レストラン情報
開店 1839年
現オーナー ミラグロス・ノボ・フェイト
(Milagros Novo Feito)
シェフ長 リカルド・クインターナ
(Ricardo Quintana)
アントーニオ・フラガ
(Antonio Fraga)
種類 スペイン料理
(マドリード料理)
ドレスコード なし
郵便番号/ZIP 28014
スペインの旗 スペイン
マドリード州
マドリード市
住所 サン・ヘロニモ通り8
席数 135席 (→サービス)
予約 レストランは予約推奨
ウェブサイト http://lhardy.com/
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地図
地図

ラルディ西Lhardy)はスペインレストランマドリードの中心部、サン・ヘロニモ通り第8番に立地する。フランス人のパティシエであるエミリオ・ラルディによって1839年に設立された[1]、マドリードで最も古いレストランのひとつとされている。

創業時はパティスリーとして開店し、徐々に食事を提供し始めた。現在ではショップバルケーキランチョンミートチーズなどをイートインテイクアウトするほか、複数のサロンを備えたレストランとしても営業している。1885年からサモワールで提供している看板メニューのコンソメは、店内左側にセルフサービスのコーナーがある[2]。また、ホテルや上流階級の祝い事のための高級ケータリングも行なっている。

歴史

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ペストリー・ショップとして開店

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1階店内の様子。イサベル朝の鏡とサモワールが見える。

19世紀初頭、モンベリアルの若いパティシエだったエミール・ユグナン(Émile Huguenin)はブザンソンで貿易を学んだあと、パリで料理の腕を磨き、地方都市のアキテーヌに移り住んだ。 なぜ彼がのちにエミリオ・ラルディと呼ばれるようになったのかは不明であるが、おそらくパリのメゾン・ドレフランス語版に触発されたものと考えられている[注 1]

エミリオ・ラルディはスペイン立憲革命(1820-23年)の後、ボルドーフェルナンド7世の報復から逃れた多くのスペイン人亡命者と会った。また、このスペインの村で彼はプロスペル・メリメと親交を結ぶが、マドリードにレストランを出すことを提案したのはこのフランス人作家だったという[3]

ラルディはマリア・クリスティーナ・デ・ボルボン摂政だった時期である1839年に、のちに伝説となる店をマドリードのサン・ヘロニモ通りに建てた。そこは小説家のベニート・ペレス・ガルドスが書いたように、市内で最もにぎやかな通りのひとつであり、スペインの宿泊施設である(フォンダ (スペイン)スペイン語版)「黄金の泉スペイン語版」もあった。「黄金の泉」は1843年にフランス人実業家、カジミール・モニエスペイン語版の手に渡り、浴場・書店・旅館の複合施設となっていた[4]

エミリオ・ラルディの新しいペストリー・ショップ「ラルディ」はカルロス3世地籍によると、当時50軒ほどの家しかなく、1848年まで敷石舗装が施されなかったサン・ヘロニモ通りの207番区画に建てられた。作家のマリアーノ・ホセ・デ・ラーラスペイン語版によれば、19世紀初頭のマドリードの旅館では外国人客はもとより、地元の人間にも美味しい料理を出さなかったとする、さまざまな証言があった[5]。口さがないロマン主義作家の意見によれば、ひと部屋に20のテーブルがある食堂でもウェイターが1人しかおらず、料理は不味くサービスもひどいものだった[6]。19世紀のマドリードでは、人々が旅館に行って食事をする習慣はなく、そこで提供された料理には植物油とニンニクが使われており、マドリードを訪れる外国人客の口に合わなかった。 したがって、海外旅行者にとってラルディの登場は奇妙とは呼べないものの、興味深い出来事だった。もうひとつの業務の新味は、客の自宅に出張して食事を提供することだった[注 2]。 フランスのパティシエは当初から精力的に愛想よく客をもてなし、ベーカリーは好評を博した[7]。ガルドスの言葉を借りれば、ラルディはベーカリーホワイト・タイを結ぶためにマドリードにやってきた。

初期の名声

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1846年のクリスマス・イヴの宴
ラ・イルスタシオン」掲載

エミリオ・ラルディの名を一躍有名にした出来事は、1841年に催されたサラマンカ侯爵、ホセ・デ・サラマンカ・イ・マヨルスペイン語版の長男、フェルナンド・サラマンカ・イ・リバモア (1841-1904, :es) のための洗礼式晩餐会である。 このイベントにより、ラモン・デ・メソネーロ・ロマーノススペイン語版は、1844年に著書「マドリードのマニュアルスペイン語版」で彼に言及している[8]。初期にはサラマンカ侯爵との逸話がいくつか残されており、最も有名なもののひとつは、1846年のクリスマス・イヴに7名のボヘミアン作家(当時は無名)がラルディでの宴に招かれたことである[9]

もっとも、すべての声価がこのレストランの素晴らしさを示しているわけではない。アレクサンドル・デュマ・ペールは、カディスへの旅行中にマドリードを訪れ、ラルディのテーブル席に腰を下ろし、その場所を「カーサ・ラルディ」と名付けたが、レストランに対する彼の態度は完全に中立を保っていた[10][11]

1847年には、スペインの政治家でガストロノミーであったパスクアル・マドズスペイン語版の著書「スペインとその海外所有物の地理統計史辞典スペイン語版」にラルディの名が記された。8月20日にはエミリオ・ラルディの息子、アグスティン・ラルディが誕生する。フランスで教育を受けたこの風景画家・版画家は、マドリードの銀細工師養成学校、レアル・ファブリカ・デ・プラテリア・マルティネススペイン語版に初めて絵画作品を出展する。

イサベルの間(1階)
イサベル朝の鏡の前のリメタ

このレストランが有名になるにつれて、当時の有名人たちは競ってラルディのテーブルに着くようになった。ここでは重要な会合が開かれたが、ほとんどの料理は高価で、諷刺作家のマヌエル・デル・パラツィオスペイン語版は雑誌「ギル・ブラススペイン語版」にクインテッラ(五行詩)を寄せた。

天幕の中で
食欲が旺盛なのに気づいた者は興奮し
その目は離れない。
それゆえ、彼が私たちに売るものは
腕と脚のお金がかかるのです。

ジャーナリストのアンヘル・マリア・セゴヴィアスペイン語版のように、価格について諷刺する者も多かった[12]

祝典に供された夕食と昼食の例を以下に示す。

19世紀後半の最も有名なケータリングには以下のようなものがある。

マドリード・ガイド

ラルディの名声はいよいよ高まり、ジャーナリストのアンヘル・フェルナンデス・デ・ロス・リオス[14]によるマドリードの名所を紹介した著書「マドリード・ガイド」(1876年)に掲載された。

19世紀が終わりに近づくころ、ラルディは装飾家のラファエル・ゲレーロ(Rafael Guerrero - かつて「カフェ・スイススペイン語版」の改装も手がけた)[注 3]によって改装され、スパニッシュ・マホガニースペイン語版製のファサードなど、流行のスタイルに造り変えられた。この時はラルディでディナーとコンソメが振舞われた[15]。1885年には電話回線が敷設され、電話予約を開始した。さらに、この年からのちにラルディの代名詞となるコンソメサモワールによる提供を始めたが、これは当時の女性客を中心に人気を集めた。

この頃、エミリオの息子のアグスティン・ラルディは、自身の画家としての手腕も含めてレストランの経営を始めた。彼は1887年にエミリオが死去したあとの経営を引き継ぎ、ラルディは有限責任会社となった。この時、作家でガストロノミーのマリアーノ・パルド・デ・フィゲロアスペイン語版がマドリードを訪れ、著書「La mesa moderna」(「モダンなテーブル」の意味)でラルディについて言及している[16]

アグスティンはサービスに陽気な空気をもたらした。彼は友人のジャーナリスト、マリアーノ・デ・カヴィアスペイン語版とともに、テーブルで料理に絵付けを行なった。諷刺画家のラモン・シラスペイン語版は、1890年に雑誌「マドリード・コミックスペイン語版」で、彼を戯画化した。コラムニストディオニシオ・ペレス・グティエレススペイン語版の諷刺詩は、アグスティンの絵画への情熱をほのめかしている。

日本の間(2階)
ラモン・シラの戯画

率直ですみません
画家になればなるほど
そしてもちろん、たぶん
あなたはパティシエであることがわかりました
だから絵筆を置いて
そして、あなたはサービスを提供します
芸術へ、あなたの工芸品に戻ってください
あなたのケーキに、パティシエ![17]

アグスティンは1890年にマドリード - ビルバオ間の鉄道ワゴン提供ケータリング事業を始めた。レストランはマドリードの社会生活の中心であり、1896年5月23日付けの雑誌「白と黒 (スペインの雑誌)スペイン語版」は店舗とレストランの構成を紹介した「ラルディの家」と題する特集記事を掲載した。1898年、ラルディはベネディクト会と提携し、セビリアのチョコレート・ブランド「R.R.ベネディクト・ファーザーズ」を独占的に販売した[18]

20世紀初頭 - アグスティン・ラルディ

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マドリード風カジョスのアスピック[2][19]
コルテソ博士の宴 (1903年4月25日)

20世紀はレストラン経営者としてのアグスティン・ラルディから始まる。作家のマヌエル・マリア・プガ・イ・パルガスペイン語版や、アンヘル・ムーロスペイン語版などの美食家たちは、ラルディの料理を賞賛する。ムーロは自身の料理書「El practicón」(練習の意味)で、ラルディのカジョス・デ・ラ・マドリレーニャスペイン語版(マドリード風カジョス-牛胃袋の煮込み)を賞賛し、いくつかのレシピを提供した。マエストロのチキン、キジ肉、タマネギを詰めたヤマウズラ、マカロニ入りのガチャス・マンチェガススペイン語版(ラ・マンチャ風おかゆ)。1906年、アグスティンは店内にそれまでのガス灯に加えて電気照明を導入。1909年、政治家のアウグスト・ゴンサレス・ベサダスペイン語版はラルディを商標登録した。一方で彼の父親譲りの料理や宴も以下のように継続された。

戦禍 - アグスティンの没後

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1930年に撮影された、スペイン国王アルフォンソ13世(左)と、首相のミゲル・プリモ・デ・リベラ(右)。
独裁者のリベラは、しばしばラルディの「日本の間」で政談を行なった。また、アルフォンソ13世の父親である、先代国王のアルフォンソ12世も、顧客としてラルディのケータリング・サービスを利用していた。

1918年4月3日にアグスティンが死去し、経営は娘婿のアドルフォ・テメス・ニエト(Adolfo Temes Nieto)に譲られた。第一次世界大戦と、競合店の増加により状況は困難さを増したが、アドルフォはこれまでのスタイルを維持し、お祝いの昼食と宴が続けられた。劇作家のハシント・ベナベンテは店のホールで何度も饗応を受け、作家のグスターボ・モラレス・ロドリゲスはそれらの出来事を小説に書いた[21]。前衛作家のラモン・ゴメス・デ・ラ・セルナスペイン語版は1923年に食事を楽しみ、独裁者のミゲル・プリモ・デ・リベラは1929年12月3日に閣僚たちに夕食を提供している。

アグスティンの娘、エミリアは、財務省の検査官アドルフォ・テメスと結婚し、政財界の後ろ盾を得たが、政治家、闘牛士、ジャーナリスト、学者などの男性中心社会にあって、エミリアは1926年に何人かの従業員に相続権を譲った。パティシエのアンブロージオ・アグアド・オマーニャ(Ambrosio Aguado Omaña)は、義理の兄弟であるシェフアントーニオ・フェイト・ペレススペイン語版と共同で、1926年にエミリオの孫娘から敷地を購入することを決定した。アントーニオの人気は高まり、20世紀の始めに非常に流通していた「ABC」などのいくつかの新聞における、オリーブ・オイル広告のイメージキャラクターに起用された[22][注 4]

1930年3月20日、ラルディのパートナーのひとりであるフルトス・ガルシア(Frutos García)は、カンポ・デ・マドリードにあったレアル・マドリードのケータリング施設運営の認可を受けた。その一方で、スペイン内戦中の記録はほとんど残っていない。食糧制限が明らかになった時、店は閉鎖されたままで、レーズン、イチジク、ワインを販売していた。航空爆弾がヘロニモの路上に落ち、ショーケースの窓を壊し、建物に深刻な被害を引き起こしたことが知られている(店の地下室でシャトー・ディケムのワインを要求し、これまでに味わったワインの中で最悪のものであると言った民兵の話による)[24]

戦争が終結に近づくにつれ、レストランは営業を再開し、徐々に通常営業を始めた。それは再び有名な夕食から始まった。その中にはさまざまな芸術家が19世紀風のロマンティックで冗談めかした言い回しで「世紀の終わり」と呼び、1943年に別れを告げたエピソードが残っている。1947年には作家のジュリア・メリダスペイン語版による「ラルディの伝記 (Biografía de Lhardy)」が出版された[1]。詩人でジャーナリストのフランシスコ・ウンブラルスペイン語版は次のように語る。

居酒屋で共謀する人もいれば、ラルディで共謀する人もいます。それはバジェカススペイン語版幕屋で始まり、ラルディの夕食で終わります。国民生活の秘密は、労働者の居酒屋からラルディに跳び移ることだからです。
エミリオ・ラルディ (1887年)
アルフレド・ペレア

20世紀の終り、ラルディは100年もの間、スペインとマドリードの歴史の一部を担ってきた伝統を持つ空間だと考えられていた[25]。レストランは最高の食品評論家によって賞賛されている。そして、19世紀および20世紀の数多くの文学作品に言及されている。98年世代の作家、アソリンは次のように断じた。

ラルディのないマドリードなど想像することはできない[26]

21世紀に向けて

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21世紀初頭、ラルディはミラグロス・ノヴォ・フェイト(Milagros Novo Feito)と、ハビエル・パゴラ・アグアド(Javier Pagola Aguado)が管理し、一族の伝統を維持し、レストランにアグアドとフェイトという姓を加えた。 2009年、ラルディは復元されたマルカード・デ・サン・ミゲルスペイン語版に出店した。そこでは一部の名物料理を提供している。レストランは会議やビジネスの場でもあり、ラウンジや階段にはロマンティックな空気が封じ込められている。同年秋には3つの部屋で小規模な火災が発生したが[27]、いくつかの改装を経て営業を再開した。しかし、COVID-19パンデミックの期間、社会距離拡大戦略のためにラルディの売上高は70%減少し、ラルディは2021年3月に破産を申告した[28]。同年5月、ラルディはコルネサス漁業(Pescaderías Coruñesas)に買収された[29]

サービス

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ラルディのエントランス見上げ
(2023年)
コンソメを提供するサモワール
ラルディのカップ&ソーサー

ラルディは2階建ての店内にショップとバル、レストランを併設している。レストランは1885年以来銀製のサモワールで提供されるコンソメが有名である。一部の客は、コシード・マドリレーニョスペイン語版(マドリード風シチュー)を賞翫する[2]シュー皮エクレア、さまざまなパフペストリーラム酒キルシュヴァッサーで風味付けされたサヴァランなどのフランス名の菓子。シャルキュトリーランチョンミート類では、七面鳥トリュフ詰め、ローストビーフレングア・エスカルラータスペイン語版(緋色の舌-牛舌のソーセージ)、レバーペストリーパステル・デ・リーブレスペイン語版など)、ウエボ・イラド(日本の鶏卵素麺に相当)、アスピックなどを提供している[注 5]マドリード料理(フランス料理を思い起こさせる)の作法へのこだわりも強く、ある有名な批評家は、ラルディのマドリード風シチューをスープ・野菜・肉と3回に分けて提供する配膳法、トレス・ブエルコススペイン語版について言及している。始めに述べたように、ラルディはこれらの料理を19世紀および20世紀初頭調に装飾された6つのサロンで提供している。アグスティンの絵画が飾られたメイン・ダイニングルーム「イサベルの間」[注 6]、壁の布地と飾られたランプにちなんで名付けられた有名な「日本の間」、白い壁で装われた「ブランコ(白)の間」、ヴァイオリン奏者のパブロ・デ・サラサーテの間、テノール歌手のフリアン・ガヤレスペイン語版と、エンリコ・タンバリックスペイン語版の間。これらは1839年からのマドリードの歴史と文化が封じ込められた空間となっている。

テーブル席数

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  • イサベルの間 - 65席
  • 日本の間 - 20席
  • 白の間 - 8席
  • サラサーテの間 - 22席
  • ガヤレの間 - 12席
  • タンバリックの間 - 8席

営業時間

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ショップ/バル

  • 月曜日から土曜日 - 9:00~23:00
  • 日曜日 - 10:00~17:00 ※夜は休業
  • 12月24日と12月31日 - 9:00~18:00
  • 12月25日と1月1日 - 9:00~17:00
  • 祝日は終日休業

レストラン

  • 月曜日から土曜日 - 13:00~24:00
  • 日曜日 - 13:00~16:00 ※夜は休業
  • 祝日は終日休業

アクセス

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文学における引用

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逸話

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ギャラリー

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脚注

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注釈

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  1. ^ «Le Hardy»や«L'Hardy»はフランス語で「勇敢な人」を意味する。1795年に開店したパリの「カフェ・アルディ」はラファイエット通りの角にあるイタリアン大通りにあった。カフェ・アルディはカトラリーを添えて朝食を提供したレストランの嚆矢とされ、暖炉のあるグリル・ルームが有名だった。
  2. ^ 当時名の知られていたレストランには、≪Fonda de Genieys≫, ≪Fonda de la Perona≫, ≪Fonda de los dos Amigos≫, ≪Botellería de la Canosa≫ などがある。
  3. ^ ゲレーロの娘であるマリア・ゲレーロスペイン語版(1867-1928) はスペインの国民的女優となった。彼女の夫であるフェルナンド・ディアス・デ・メンドーサ・イ・アグアドスペイン語版 (1862-1930) もスペインを代表する俳優であり、彼らの子孫からも数多くの舞台人が生まれている。
  4. ^ 現代の研究者の中には、アントーニオを今日で呼ぶところのメディア・シェフの嚆矢と見なす者もいる[23]
  5. ^ 他には「舌平目の白ワイン煮」が名高く、フランス語では ≪Lenguado Lhardy≫(舌平目のラルディ)と呼ばれることがある[30]
  6. ^ 店内に飾られた絵画は、マエストロ・パルメロ (Alfredo Palmero de Gregorio, 1901-1991) の作品2点を除き、すべてアグスティンの作品である。

出典

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  1. ^ a b Julia Mélida (1947), Biografía de Lhardy, Gráf. Espejo-Libros y Revistas, Madrid
  2. ^ a b c Néstor Luján, Juan Perucho, (2003), El libro de la cocina española, Tusquets, pp. 121
  3. ^ José Altabella (1978), Lhardy. Panorama histórico de un restaurante romántico 1839–1978, Imprenta Ideal
  4. ^ Simón Díaz 1993, p. 112).
  5. ^ Peter Besas (2009),Historia y anécdotas de las fondas madrileñas, Ed. La Librería, ISBN 978-84-9873-032-6
  6. ^ Mariano José de Larra, 23 de agosto de 1833, «Cenar de fondas», posteriormente «Fonda Nueva».
  7. ^ Artículo póstumo (1903), Revista Ilustrada de la Banca, Ferrocarriles, Industria y Seguros, ed. en Madrid
  8. ^ Ramón de Mesonero Romanos, Manual de Madrid: descripción de la corte y de la villa
  9. ^ Barón de Parla-Verdades (1849), Madrid al daguerrotipo, Madrid
  10. ^ Cartas selectas (PDF) 2009-08-14
  11. ^ Alexandre Dumas, (1847), De París a Cádiz
  12. ^ Ángel María Segovia (1876), Melonar de Madrid
  13. ^ Gaceta La Política, 26 de febrero de 1876
  14. ^ Ángel Fernández de los Ríos (1876), Guía de Madrid. Manual del madrileño y del forastero, La Ilustración Española y Americana
  15. ^ Enrique Sepúlveda, La vida en Madrid en 1886
  16. ^ Mariano Pardo de Figueroa (1888), La mesa moderna
  17. ^ Dionisio Pérez (1899), Personas, personajes y personillas, cuarta serie
  18. ^ Rafael Montal Montesa (1999), El chocolate «Las semillas de oro», Gobierno de Aragón.
  19. ^ Ángel Muro (1982), Practicón, Tusquets, ISBN 84-7223-813-X
  20. ^ Francisco Abad Alegría, (2010), «Líneas maestras de la gastronomía y culinaria españolas (siglo XX)», Madrid, Trea, pp:18
  21. ^ Gustavo Morales (1924), Madrid de mi vida — Añoranzas, Madrid, Gráfica Universal
  22. ^ Reclamo publicitario de «Diario ABC», 17 de diciembre de 1927
  23. ^ Miguel A. Almodovar, (2009), Yantares de cuando la electricidad acabó con las mulas, Madrid, ISBN 84-9763-840-9
  24. ^ Diego Núñez, Viaje Cultural por el Viñedo Alemán
  25. ^ Antonio Espina, (1995), Las tertulias de Madrid, Alianza Tres, Madrid, sec: "Los de Lhardy"
  26. ^ a b Cofradía de la buena mesa, (1975), «Madrid Gastronómico», Madrid
  27. ^ El Lhardy sufre un incendio en un ropero y tres salones” (2 october 2009). 5 may 2021閲覧。
  28. ^ de mayo de 2021
  29. ^ de mayo de 2021
  30. ^ Joaquín de Entrambasaguas (1971), ≪Gastronomía madrileña
  31. ^ Manuel Bretón de los Herreros, (1859), La hipocresía del vicio: Comedia original en tres actos y en verso, BiblioBazaar, LLC (ed. moderna), Acto I, Escena VII
  32. ^ Fernando Fernández de Córdova (1886), Mis Memorias íntimas, Velecio Editores, S.L. (edición moderna)
  33. ^ Enrique Chicote, (1952)

関連項目

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参考文献

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  • Altabella, José (1978), Lhardy. Panorama histórico de un restaurante romántico 1839–1978, Imprenta Ideal: Madrid, 327 pp. Considerado como el único libro con la historia de este restaurante madrileño.
  • Mélida, Julia (1947), Biografía de Lhardy, Gráf. Espejo—Libros y Revistas, Madrid

外部リンク

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