ラモット・ピケ (軽巡洋艦)
ラモット・ピケ (Lamotte-Piquet) は[注釈 1]、フランス海軍が海軍休日時代に建造した巡洋艦[注釈 2]。 デュゲイ・トルーアン級軽巡洋艦の2番艦[3][注釈 3]。 本艦のみロリアン海軍工廠で建造された[注釈 4]。艦名はアメリカ独立戦争中のグレナダの海戦やサバンナ包囲戦で活躍したトゥサン=ギヨーム・ピケ・ド・ラ・モット (Toussaint-Guillaume Picquet de la Motte) に由来する[6]。
1936年以降、東南アジア、東アジアで活動。親善のため、幾度か大日本帝国を訪問したことがある[注釈 5]。 第二次世界大戦の緒戦でフランスが敗北して1940年7月にヴィシー政権が樹立すると、ヴィシー軍に所属した。タイとの間で紛争が発生すると、1941年1月17日に他艦と共にタイ海軍部隊攻撃(コーチャン島沖海戦)を行った[7]。同年9月、日本で修理をおこなう[注釈 6]。 仏印に戻るが、その後は燃料不足もあって係留状態となる。太平洋戦争末期の1945年1月12日にアメリカ海軍空母機の攻撃で被弾、横転した。
艦歴
[編集]1923年1月17日に起工[9]。1924年3月21日に進水[9]。1927年3月5日竣工[9]。
1935年、「ラモット・ピケ」は極東配備となる[10]。11月2日にブレストより出航し、ビゼルト、ポートサイド、ジブチ、アデン、コロンボ、シンガポールを経て12月30日にサイゴンに着いた[11]。1936年1月8日、極東艦隊 (Forces navales d'Extrême-Orient) を率いるEsteva中将は軽巡洋艦「プリモゲ」から「ラモット・ピケ」へ将旗を移した[11]。
同年1月20日、「ラモット・ピケ」はサイゴンから巡航に出発[11]。トゥーラン、Port-Dayot、トゥーラン、ハイフォン、Along Bay、Kwangchow Wan、香港、上海、青島、大連、威海衛、仁川と訪れ、釜山に停泊した後、宮島、高松、神戸、横浜、室蘭、函館、青森、敦賀、宮津を訪問した[注釈 5][13]。それからドック入りのため長崎に滞在[14]。その後、青島を経て上海に着き、そこに1か月滞在[15]。それから香港、サンダカン、バリクパパン、マカッサル、バリ島Sanoer、バタビアと訪れ、12月16日にサイゴンに戻った[15]。
1937年1月、セブ訪問[15]。3月からはマニラ、香港、基隆、鹿児島、別府、博多港、長崎、青島、上海、長崎、宮島、神戸、横浜と訪問[注釈 5][注釈 7][15]。7月1日には、フランス極東艦隊司令長官や本艦艦長が[17]、皇居で昭和天皇に拝謁している[注釈 8]。続いて上海、威海衛、チーフー、Chin-Wang-Tao、Shan-Kai-Kwan、Chin-Wang-Tao、チーフーと訪れ、8月11日に上海着[19]。同地では第二次上海事変が発生。12月26日までの同地滞在中には時々近くに爆弾が落下した[20]。
上海を離れた後はハイフォン、Along Bay、トゥーラン、ニャチャンを経て1938年1月16日にサイゴン着[21]。サイゴンで3か月にわたる修理を実施[21]。4月にはPort-Dayot、Along Bay、Fort-Bayardと訪れ、5月には香港で整備を実施[21]。その後Chusan Archipelagoで「プリモゲ」と会い、それから5月20日から6月28日まで上海に滞在した[22]。それからトゥーラン、チーフー、威海衛、青島を経て7月23日にサイゴンに戻った[23]。「ラモット・ピケ」は7月28日出航してAlong Bayで「プリモゲ」と訓練を行い、Port-Dayotを経てサイゴンに戻った[23]。8月からはシンガポール、スラバヤ、バリ島、マカッサル、クダッ、マニラ、Port-Dayot、トゥーラン、香港と訪れ、10月22日に上海着[23]。11月22日まで上海にとどまり、香港へ行った後、Chusan Islandsで訓練を実施[23]。それからAlong Bayで「プリモゲ」と会い、訓練の後、ハイフォン、トゥーラン、Port-Dayot、Cap Saint-Jacques、カンボジアのRéamと経て1939年1月13日にサイゴンに戻った[23]。それから2か月にわたる整備を実施[23]。完了後、トゥーラン、Along Bay、Port-Dayotを経て香港へ行き、同地で入渠して舵の修理などを実施して4月23日にサイゴンに戻った[23]。「ラモット・ピケ」は5月は日本により租界が脅かされていた厦門を訪れ、6月にはフランスの駐中国大使Henri Cosmeを上海からハイフォンへ運び、それからカムランへ移動[23]。フランス潜水艦「フェニックス (Phénix) 」が演習中の6月15日にカムラン湾で消息不明となると[23]、「ラモット・ピケ」と「プリモゲ」はその捜索を行った[注釈 9]。
「ラモット・ピケ」はサイゴンに戻った後、6月21日から29日までシンガポールに滞在[25]。そこで、極東艦隊の指揮官Decoux中将は不穏な極東情勢を受けて開催された英仏会議に出席した[26]。それから、Cap Saint-Jacques、ニャチャン、カムランを経てサイゴンに戻った[26]。8月、巡洋艦「シュフラン」とともにPort-Dayotを訪れ、次いでAlong Bayで訓練を実施[26]。厦門、青島、威海衛を訪れた後、ヨーロッパ情勢を受けて8月28日にサイゴンに戻った[26]。
9月、第二次世界大戦が勃発。「ラモット・ピケ」は香港を訪れ、サイゴンへ戻ると次はインドシナ兵及び労働者を運ぶ船の護衛に従事し、シンガポールを経て10月3日にコロンボに到着[26]。それからペナンを経てサイゴンに戻った[26]。整備の後、香港、カムラン、サイゴン、香港、ハイフォンと移動し、11月27日にサイゴンに戻る[26]。
12月はシンガポールへ向かった後、蘭印でドイツ船捜索に従事[26]。サイゴンへ戻った後、1940年1月後半から再び蘭印で活動し、2月8日にサイゴンに戻ると整備を実施した[26]。3月後半は香港に滞在し、入渠もした[26]。また、オーストラリア仮装巡洋艦「カニンブラ」が香港近くまで護送してきたソ連船「Vladimir Mayakovsky」を引き渡されている[27]。サイゴンへ戻った後、Port-Dayot、カムランと移動し、それからインドシナ沿岸の哨戒活動に従事した[26]。5月は香港を訪れ、サイゴン滞在期間を挟んで哨戒に従事した[26]。
5月、西部戦線で連合軍は大敗した[28]。6月22日に独仏休戦協定とヴィラ・インサーチ協定が結ばれて、フランスはドイツとイタリア王国に事実上降伏した[29]。ヴィシー・フランスが成立したが、同時に自由フランス軍も発足した。「ラモット・ピケ」はヴィシー軍に残る[30]。
「ラモット・ピケ」は6月22日にサイゴンに戻った[26]。8月12日、極東艦隊は解隊となった[26]。8月後半、ハイフォン、Along Bay、Fort-Bayardを訪れる[26]。9月、日本軍による北部仏印進駐が実施された(北部仏印進駐、両軍戦闘序列)。10月後半にはPhan-Thiut、カムラン、ニャチャン、カムランと訪れ、11月後半にはサイゴンからファンティエットへ航海した[26]。12月はサイゴンからプロコンドル島へ赴いた[26]。
11月からフランス領インドシナとタイとの間で紛争が発生。「ラモット・ピケ」と通報艦「アミラル・シャルネ」、「デュモン・デュルヴィル」、「マルヌ」、「タウール」からなる部隊が作られ、「ラモット・ピケ」艦長のRégis Bérenger大佐がその指揮官となった[31]。
1941年(昭和16年)1月14日、仏印総督のジャン・ドクーはカムラン湾で観艦式をおこない、フランス艦隊旗艦として「ラモット・ピケ」も参加した[注釈 10]。さらにドクー総督はJules Terrauxフランス艦隊司令官と重要会談をおこなう[注釈 10]。 陸軍からの支援要請を受けて同15日に同部隊はプロコンドル島より出撃[33]。タイ艦隊はSattahibとKoh Changの2か所に分かれているとの偵察情報があり、Bérengerは距離が近い等の理由からKoh Changの方を攻撃することに決めた[33]。1月17日、フランス海軍部隊は、トンブリ級海防戦艦2隻を基幹とするタイ海軍と交戦した[34](コーチャン島沖海戦)[35]。 「ラモット・ピケ」はまず水雷艇「チョンブリ」、「ソンクラ」と交戦[36]。また泊地へ魚雷3本を発射したが、それによる戦果はなかった[36]。続いて海防戦艦「トンブリ」と交戦して何度か命中弾を与え、「トンブリ」では艦長が戦死して舵機故障をおこした[7]。「トンブリ」に対しても魚雷3本を発射したが外れた[36]。戦闘終了後に「トンブリ」は浅瀬で転覆した[37]。タイ側は「ラモット・ピケに大損害を与えた」と勝利を宣伝し[注釈 11]、フランス側は自軍に損害はなかったとするが、少なくとも8インチ砲弾1発が「ラモット・ピケ」に命中したとの主張もある[37]。帰路、フランス海軍部隊はタイ王国空軍の航空機による攻撃を受けた[37]。Curtiss Hawk III戦闘機による「ラモット・ピケ」攻撃では、フランス側は艦から数メートルの場所に爆弾が落下したとする一方、タイ側は250kg爆弾1発が命中したが不発であったと主張している[37]。続くVought V93S軽爆撃機の攻撃は成果なく終わっている[37]。
1月18日、サイゴンに帰投[34]。大日本帝国がフランスとタイの調停に乗り出した[39]。停戦会議がはじまり[40]、大日本帝国海軍の軍艦「名取」がサイゴンに寄港して会場となった[41]。また停戦監視と「名取」護衛のために日本海軍の航空母艦や水雷戦隊が出動した[42]。その間も「ラモット・ピケ」はサイゴンに停泊していた[注釈 12]。 2月15日、軽巡「長良」がサイゴンに到着して軽巡「阿武隈」(第一水雷戦隊旗艦)から監視任務を引き継ぐ[44]。「ラモット・ピケ」は「長良」に連絡将校をおくらなかった[45]。22日には駆逐艦「夕暮」が[46]、サイゴンに到着した[47]。「ラモット・ピケ」は2月23日にサイゴンを出発[48](夕暮もサイゴン出発)[49]、約一週間ほどカムランに赴いたあと、サイゴンに帰投した[注釈 12]。3月13日には、サイゴンの監視艦艇が「長良」から駆逐艦「磯風」[50](第17駆逐隊)に交代する[51]。同月後半からはPort-Bayard、Along Bay、トゥーラン、Dosonを訪れた[34]。5月はトゥーラン、ニャチャンを、6月はカムラン、Cap Saint-Jacques、クイニョン、Xuan-Dai、カムランと訪れた[34]。日本海軍は海防艦「占守」などをベトナムに派遣して、「ラモット・ピケ」以下フランス極東艦隊の監視にあたらせた[52]。
7月と8月は「ラモット・ピケ」はサイゴン工廠で過ごす[34]。この頃にはボイラーの状態が悪化してきており、また入渠の必要もあったがサイゴンのドックは小さすぎて「ラモット・ピケ」は入渠不可能であった[53]。9月8日、大阪へ向けて出発[34]。9月15日に到着して大阪港に碇泊、この様子がニュース映像として残っている[54]。 艦長は阪神海軍部や中部軍司令部を訪問して挨拶した[注釈 6]。「ラモット・ピケ」は17日に入渠し、22日に出渠した[34]。艦長は東京の海軍省におもむいて謝意を表明し、日本側も歓迎晩餐会を開いたという[注釈 13]。 9月27日、大阪を出発した[56]。サイゴンへの帰途嵐にあい、修理に1か月以上要した[34]。ボイラーの修理は1942年3月から9月にかけて実施されるも、「ラモット・ピケ」は燃料不足のため活動不能となった[57]。「ラモット・ピケ」はドンナイ川で係留され、海軍学校として使用された[57]。
1945年1月、アメリカ海軍第38任務部隊が南シナ海に進入(グラティテュード作戦)。1月12日、「ラモット・ピケ」はCat Lai沖で第38.2任務群(空母「レキシントン」、「ハンコック」、「ホーネット」)による空襲を受け、被弾し横転した[58]。第一次インドシナ戦争の終わった1954年時点でも、「ラモット・ピケ」の船体は残ったままであった[59]。
要目
[編集]- 基準排水量 - 7,249トン
- 全長 - 181.6 m
- 幅 - 17.2 m
- 速力 - 33ノット
- 主な兵装 - 50口径15.5cm連装砲4基、3連装魚雷発射管4基
出典
[編集]注釈
[編集]- ^ 巡洋艦ラモット・ピックヰエ(一九二五年十二月竣工)[1] 正規排水量七八八〇噸時速三四節。水雷二十四個を携行せる外、艦載水雷艇を有し之れに十七・七吋水雷四個を賦與し得る。遠洋航路向きの優秀艦である。
- ^ 二等巡洋艦 “ラモツト・ピケ Lamotte Piquet”[2] 全要目{排水量7,249噸 速力34.0節 備砲15.5糎砲8門 魚雷發射管12門 起工1923年1月 竣工1926年9月 建造所 ロリアン海軍工廠} プリモウゲの同型艦で、南洋方面の遣外艦隊の旗艦として、幾度か日本にもやつて來た。長さがわが衣笠よりも約10米長く出來てゐるのが見た眼に非常に長細い船だと感じさせるが、もともと遣外艦隊配属を目的として造られたものであるから、大きな圖体には少からざる燃料をつんで15節にて9,000浬といふ航續距離を示してゐる。主砲高角砲共に最新の制式を有し、單騎よく大洋のまん中にあつて決してひけはとらぬと云ふ。もう一隻の同型艦は“デユゲイ・トルーアン Duguay Trouin”要目全く同じである。
- ^ 二等巡洋艦“デュガイ・トルーアン Duguay Trouin”[4] 全要目{排水量7,249噸 速力34節 備砲15.5糎砲8門 魚雷發射管(53糎)12門 起工1922年8月 竣工1926年11月 建造所ブレスト海軍工廠} 同型艦“ラモツトピケ Lamotte-Picquet}” “プリモウゲ Primauguet”全長184.08米、幅17.07米、平均吃水5.49米。上記の外に7.5糎高角砲4門その他小砲7門を有す。/水上機2機(哨戒機)を搭載す。34節の全速力に於ける軸馬力は100,000馬力。重油搭載量は最大1,500噸。34節の全速力にて880浬の行動半徑を航續し得、同じく30節では1,290浬、20節で3,000浬、15節では4,500浬と云はれてゐる。魚雷は24個搭載しその外に艦載艇用魚雷(45糎)を搭載してゐる。
- ^ 姉妹艦デュゲイ・トルーアン (Duguay-Trouin) とプリモゲ (Primauguet) はブレスト海軍工廠で建造された[5]。
- ^ a b c (3)艦船 10.外國軍艦本邦沿岸出入一覧昭和11年度[12](ラモット・ピケ出入抜粋)〔 大連(昭和11年5月15日~5-20)、仁川(6-5~6-12)、釜山(6-13~6-18)、宮島(1-19~6-25)、高松(6-25~6-29)、神戸(6-29~7-15)、横濱(7-16~7-30)、室蘭(8-1~8-6)、函館(8-6~8-11)、青森(8-11~8-17)、敦賀(8-19~8-28)、宮津(8-28~8-31)、長崎(9-1~9-21)/基隆(昭和12年3月22日~3-26)、鹿兒島(3-27~3-30)、別府(3-31)
- ^ a b 佛艦、大阪港に着く 極東艦隊の旗艦、佛印から來阪 信頼へ暫し巨体委託(大阪十五日同盟)[8] 日本の優秀な造船技術に信頼し、損傷修理のため遥々佛印からやつて來たフランス極東艦隊旗艦ラモツトピケ號(七八八〇トン)は、十五日早朝の朝靄けむる大阪港外に銀鼠色の巨体を現し、三色旗を秋風になびかせながら八番ブイに繋留された、佛單艦の大阪港訪問は五年ぶりで、この日阪神海軍部岩崎中佐、木下少佐らが佛國大使館員とともに同艦を訪問、艦體修理の打合せをしたが、艦長コモントリー大佐は午後一時阪神海軍部中部軍司令部などを公式挨拶した、なほ同艦は十七日大阪鐡工所ドツクに入渠するはずである(記者附記)右の佛艦ラ號は、昨年の佛印、泰國境粉爭事件で兩國が爭つたとき、シャム灣上で泰軍と交戰して損傷をうけたものである)(記事おわり)
- ^ (3)艦船 10.外國軍艦本邦沿岸出入一覧昭和12年度[16](ラモット・ピケ出入抜粋)〔 別府(昭和12年4月1日~4-4)、博多(4-4~4-9)、長崎(4-9~4-15)/長崎(昭和12年6月2日~6-12)、宮島(6-13~6-19)、神戸(6-19~6-29)、横浜(6-30~7-10)
- ^ ◎謁見[18] 佛國極東艦隊司令長官海軍中将ジュール、ル、ビゴ今般來航ニ付敬意ヲ表スルタメ同艦隊参謀長海軍大佐アルフレッド、ルメール外二名ヲ從ヘ本邦駐箚同國特命全權大使シャルル、アルセーヌ、アンリー同伴同大使館附海軍武官 海軍大佐ジョセフ、ロザテイト共ニ昨一日午前十時三十分 天皇陛下ニ謁見仰付ケラレタリ
- ^ 遭難佛國潜水艦 乗組員七十一名 全く絶望(サイゴン十七日同盟)[24] 演習中浸没せるフランス潜水艦フエニツクス號の沈没箇所は十七日夕刻にいたり海上に多量の油が浮かべるのを發見捜査の結果カムラン灣沖で水深二百フイトのところなる事が漸く判明した、現場附近には極東艦隊所属の巡洋艦ラモツト・ピケゴー、同プリモーゲ號その他サイゴンより急行せる救助船數隻が警戒してゐるが、乗組員七十一名の運命は絶望視されてゐる、なほ佛印總督プレピエモは十七日サイゴン發カムランへ急行した(記事おわり)
- ^ a b 泰國軍、引續き進撃中'(バンコツク十五日同盟)[32] タイ軍當局發表によれば、十二日の佛印機によるナコンバーン爆撃の報復としてタイ空軍は十三日サヴァナケツトを爆撃、多大の戰果をあげた、又東北地區においてはメコン河に沿つて前日來各所において銃砲火を交へた、タイ軍は依然として進撃をつゞけてゐる 佛印總督 觀艦式に臨む(ハノイ十五日同盟)ドクー佛印總督は十四日ガムラン灣における佛國アジア艦隊旗艦ラモツトピチ號以下の觀艦式に臨んだのち佛印海軍司令官テロ―中将以下海軍首脳と重要會談をとげた(記事おわり)
- ^ 十七日の佛泰海戰 佛艦三隻沈没、大破(バンコツク二十日同盟)[38] 本日タイ国官邊筋では去る十七日佛泰兩海軍の初海戰が行はれた旨承認した。即ち同海戰はタイ側旗艦ドングブリ號(乙級巡洋艦、二二六五噸)以下水雷艇二隻及びフランス側旗艦ラモートピケ號(乙級巡洋艦、七二四○トン)以下砲艦その他五隻との間に行はれ、シャム灣コーチャン島沖合で砲火を交換、タイ側は佛國側旗艦ラモートビケ號に大損害を與へたほか、砲艦三隻を撃沈、飛行機一機を撃墜して大勝したといはれタイ艦隊も損害を蒙つた模様(記事おわり)
- ^ a b (二) 佛國艦艇出入港ノ状況[43] 右出入港状況ヲ見ルニ「ピケ」ハ去ル一月對泰海戰以後去ル二月二十三日初メテ西貢ヲ出動セルモノニシテ之ハ二月二十五日ノ停戰期間満了ト深キ関係アリシコト確實ニシテ出動期間約一週間ニ渉レリ(以下略)
- ^ 佛艦ラ號修復 お禮に艦長東京へ(東京二十五日同盟)[55] 大阪鐡工場ドツクに入渠修理中であつた佛印海軍旗艦ラモツト・ピケ號は修理を終了したので、同艦長アセー・ヴーコマントリー大佐は二十五日朝東京驛着列車で入京、午前十一時海軍省を訪問、海相代理澤本次官に面會し、來朝の挨拶を述べるとゝもにラモツト・ピケ號修理について日本海軍側から寄せられた好意に謝意を表した、なほ二十六日夜海相官邸で同艦長歡迎の晩餐會が開かれる豫定である(記事終わり)
脚注
[編集]- ^ 世界海軍大写真帖 1935, p. 50.
- ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 131(原本244-245頁)二等巡洋艦ラモツト・ピケ
- ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 128a-129デュゲイ・トルーアン級軽巡洋艦/軽防御ながら航洋性に優れたフランス近代巡洋艦の先駆け
- ^ ポケット海軍年鑑 1935, p. 154(原本290-291頁)二等巡洋艦デュガイ・トルーアン
- ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 128b.
- ^ French Cruisers 1922-1956, p. 27
- ^ a b 橋本、海防戦艦 2022, p. 331.
- ^ 「Shin Sekai Asahi Shinbun 1941.09.16 新世界朝日新聞/nws_19410916(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022493200 p.1
- ^ a b c French Cruisers 1922-1956, p.166
- ^ Cruisers of World War Two, p. 28
- ^ a b c "French Light Cruisers: Part 3", p. 60
- ^ 海軍省年報、昭和11年 1938, pp. 21–22原本22-23頁
- ^ "French Light Cruisers: Part 3", pp. 60-61
- ^ "French Light Cruisers: Part 3", p. 61
- ^ a b c d "French Light Cruisers: Part 3", p. 61
- ^ 海軍省年報、昭和12年 1940, p. 19原本19頁
- ^ #ビゴ外二名叙勲 p.4
- ^ 昭和12年07月02日(金)官報第3184号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ11(原本53)
- ^ "French Light Cruisers: Part 3", pp. 61-62
- ^ French Cruisers 1922-1956, p. 171
- ^ a b c "French Light Cruisers: Part 3", p. 62
- ^ "French Light Cruisers: Part 3", pp. 62, 80
- ^ a b c d e f g h i "French Light Cruisers: Part 3", p. 63
- ^ 「Shin Sekai Asahi Shinbun 1939.06.20、新世界朝日新聞/nws_19390620(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022332600 p.1
- ^ "French Light Cruisers: Part 3", pp. 63, 65
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q "French Light Cruisers: Part 3", p. 65
- ^ Royal Australian Navy, 1939–1942, p. 141, Axis Blockade Runners of World War II, p. 64
- ^ “疾風怒濤パリへ快進撃”. NHKアーカイブス (1941年). 2023年10月22日閲覧。
- ^ 「Shin Sekai Asahi Shinbun 1940.06.23 新世界朝日新聞/nws_19400623(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022405400 p.1〔 フランス完全に屈服 獨側要求を全面承認 遂に停戰協定へ調印 〕
- ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 129.
- ^ The Royal Navy's Revenge and Other Little-Known Encounters of the War at Sea, Chapter 1, The Naval Forces
- ^ 「Shin Sekai Asahi Shinbun 1941.01.16 新世界朝日新聞/nws_19410116(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022445200 p.1
- ^ a b The Royal Navy's Revenge and Other Little-Known Encounters of the War at Sea, Chapter 1, The Campaign
- ^ a b c d e f g h "French Light Cruisers: Part 3", p. 67
- ^ 「Shin Sekai Asahi Shinbun 1941.01.18 新世界朝日新聞/nws_19410118(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022445600 p.1〔 泰=佛印初海戰 泰側二艦沈没と傅ふ(サイゴン十七日發) 〕
- ^ a b c The Royal Navy's Revenge and Other Little-Known Encounters of the War at Sea, Chapter 1, The Battle
- ^ a b c d e The Royal Navy's Revenge and Other Little-Known Encounters of the War at Sea, Chapter 1, Aftermath
- ^ 「Shin Sekai Asahi Shinbun 1941.01.21 新世界朝日新聞/nws_19410121(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022446200 p.1
- ^ 「Shin Sekai Asahi Shinbun 1941.01.25 新世界朝日新聞/nws_19410125(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022447000 p.1〔 佛泰國境紛爭解決へ 帝國、居中調停を提議 鶴の一聲、兩國受諾を回答 〕
- ^ 「Shin Sekai Asahi Shinbun 1941.01.29 新世界朝日新聞/nws_19410129(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022447800 p.1〔 佛印と泰兩軍、二十八日戰闘を中止 サイゴン停戰會議二十九日開幕豫定 〕
- ^ 「「写真週報155号」、写真週報(国立公文書館)」 アジア歴史資料センター Ref.A06031075000 p.2〔 日本の調停で泰・佛印の停戰協定成る 〕、「Shin Sekai Asahi Shinbun 1941.01.30 新世界朝日新聞/nws_19410130(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022448000 p.1〔 サイゴン港の帝國軍艦○○にて……泰=佛印停戰會議開幕 順調進行、協定早急成立模様 〕
- ^ 「Shin Sekai Asahi Shinbun 1941.02.01 新世界朝日新聞/nws_19410201(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022448400 p.1〔 (中略)またサイゴン南方海上には今次佛泰停戰會議場に當てられたわが乙級巡洋艦名取(五一七〇噸)を護衛すべき巡洋艦航空母艦、砲艦各二隻、計六隻が集結しつゝありといはれる(以下略) 〕
- ^ 「「西貢附近兵要参考資料 軍艦長良 昭和16年3月/第7項 仏印海軍に関する見聞事項」、昭和16.3.西貢附近兵要参考資料(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C14121116800 pp.3-4
- ^ #長良西貢経過概 pp.1-2
- ^ #長良申継(31-13) pp.1-2(記事「ラモツトピケ」ヨリハ訪問交換便來ラズ訪問交換不施行)
- ^ #支那事変第9回功績(27駆) p.2
- ^ #長良申継(31-13) p.2(2月18日項目)〔 (二)驅逐艦夕暮西貢入港ニ關スル交渉成立 〕、同資料 p.3(2月22日項目)〔 (一)一一三〇夕暮入港本艦ニ横付航空燃料ヲ陸揚生糧品補給(以下略) 〕
- ^ #長良西貢経過概 pp.3-4
- ^ #長良申継(31-13) p.3(2月23日項目)〔 (一)一二三〇佛巡洋艦Lamotte Piquet出港 (二)一四〇〇夕暮出港(以下略)停戰期間二十五日ヨリ十日間延長(三月七日正午迄) 〕
- ^ #支那事変第9回功績(17駆) p.6
- ^ #長良西貢経過概 pp.9-10、#長良申継(31-13) p.6〔 三、一二(水)|(一)磯風一三三〇入港本艦横付 (二)本艦磯風任務交代命令受領 〕〔 三、一三(木)|(一)磯風ニ任務引續 (二)艦長關係各部訪問 〕〔 三、一四(金)|午後長良出港 〕
- ^ 日本海防艦戦史 1994, pp. 18–2占守 ベトナムで監視
- ^ "French Light Cruisers: Part 3", p. 67, French Cruisers 1922-1956, p. 188
- ^ “仏極東艦隊旗艦 大阪港へ”. NHKアーカイブス (1941年). 2023年10月22日閲覧。
- ^ 「Shin Sekai Asahi Shinbun 1941.09.26 新世界朝日新聞/nws_19410926(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022495200 p.3
- ^ 「Shin Sekai Asahi Shinbun 1941.09.28 新世界朝日新聞/nws_19410928(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022495600 p.3〔 佛印旗艦大阪出發(大阪二十七日同盟) 〕
- ^ a b "French Light Cruisers: Part 3", p. 69, French Cruisers 1922-1956, p. 189
- ^ "French Light Cruisers: Part 3", p. 69, French Cruisers 1922-1956, p. 189, The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II
- ^ "French Light Cruisers: Part 3", p. 69
参考文献
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