ラム・アコル
ラム・アコル・アジャウィン Lam Akol Ajawin | |
---|---|
生年月日 | 1950年7月15日(74歳) |
出生地 | 英埃領スーダン(現 南スーダン)、上ナイル州Athidhwoi |
出身校 | ロンドン大学 |
前職 | ハルツーム大学講師、スーダン共和国外務大臣 |
所属政党 |
(スーダン人民解放軍→) (スーダン人民解放軍・ナシル派→) (スーダン人民戦線・統一派→) (国民会議→) (正義党→) (スーダン人民解放軍→) スーダン民主改革のための人民解放運動 |
称号 | 博士 |
在任期間 | 2005年 - 2007年 |
在任期間 | 1997年 - 2002年 |
ラム・アコル・アジャウィン(Lam Akol Ajawin、1950年7月15日 - )は、スーダンおよび南スーダンの政治家。スーダン民主改革のための人民解放運動(SPLM for Democratic Change、SPLM-DC)の指導者。
経歴・概要
[編集]ハルツーム大学化学工学部講師として勤務し、ロンドン大学で博士号を取得した。1986年スーダン人民解放軍(SPLA)に加入する。1991年リエック・マチャル、ゴードン・コングとともにSPLAを離脱し、ナシル派(SPLA-Nasir)を結成する。のち統一派、南スーダン独立運動/軍)を結成する。1995年リエック・マチャルと袂を分かち、スーダン人民解放運動・スーダン人民解放軍統一派を結成し議長となる。1997年ハルツーム和平協定に調印し、スーダン政府に参加、運輸大臣に就任する。2002年運輸相を辞任し、国民会議 (NCP)を離党し野党結成に動き、新党正義党を結成した。2003年10月アコル博士は配下の民兵とともにSPLAに再加入した[1]。
2005年スーダン生命線活動(Operation Lifeline Sudan、OLS)協定では、SPLA指導者であったジョン・ガランの死後、交渉に当たった[2]。
同年、外務大臣に就任した。外相としてはダルフール紛争の和平交渉に当たった。また、2006年(平成18年)11月6日から8日まで来日している[3]。2007年10月、SPLMは政権から離脱を決定した。アコルは政権にとどまり外相職にあったが、10月17日、オマル・アル=バシール大統領は、内閣を改造し、デン・アロルを外相に任命し、アコルを重要でない閣内ポストに移そうとした。結局、この一連の改造劇に伴い、外相を辞任した。
2010年4月11日に行われた南部スーダン自治政府大統領選挙にスーダン民主改革のための人民解放運動から立候補したが、得票は約7パーセント、19万7217票にとどまり落選した。
脚注
[編集]- ^ John Young, The South Sudan Defence Forces in the Wake of the Juba Declaration, HSBA Issue Brief No. 2 (October 2006), p. 15
- ^ http://www.c-r.org/our-work/accord/engaging-groups/operation-lifeline.php Operation Lifeline Sudan: war, peace and relief in southern Sudan]”. 2011年7月18日閲覧。 “[
- ^ https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/sudan/visit/0611_kg.html アコル・スーダン外務大臣の来日(概要)]”. 外務省ホームページ. 2011年7月18日閲覧。 “[
関連項目
[編集]- 南スーダンの大統領(最近の大統領選挙結果を参照)
外部リンク
[編集]
|
|