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ラトック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ラトック 1峰
Latok Peaks and the Ogres thumb
最高地点
標高7,145 m (23,442 ft) [1]
プロミネンス1,475 m (4,839 ft) [1]
座標北緯35度55分41秒 東経75度49分21秒 / 北緯35.9280度 東経75.8225度 / 35.9280; 75.8225
地形
所属山脈Panmah Muztagh, カラコルム山脈
登山
初登頂1979年7月19日、 重廣恒夫松見親衛、渡辺優[2]
最容易
ルート
East Ridge from south side
プロジェクト 山
ラトック 2峰
最高地点
標高7,108 m (23,320 ft) [1]
プロミネンス1,475メートル (4,839 ft)
座標北緯35度55分12秒 東経75度48分09秒 / 北緯35.9200度 東経75.8025度 / 35.9200; 75.8025
地形
所在地ギルギット・バルティスタン, パキスタン
所属山脈Panmah Muztagh, カラコルム山脈
登山
初登頂1977 by E. Alimonta, T. Mase, R. Valentini[3]
最容易
ルート
Southeast Buttress
プロジェクト 山
ラトック 3峰
最高地点
標高6,949 m (22,799 ft) [1]
プロミネンス1,475メートル (4,839 ft)
座標北緯35度55分13秒 東経75度50分23秒 / 北緯35.9204度 東経75.8396度 / 35.9204; 75.8396
地形
所在地ギルギット・バルティスタン, パキスタン
所属山脈Panmah Muztagh, カラコルム山脈
登山
初登頂1979年7月15日、寺西洋司高見一成森榮[2]
最容易
ルート
Southwest Ridge
プロジェクト 山
ラトック 4峰
最高地点
標高6,456 m (21,181 ft) [4]
プロミネンス1,475メートル (4,839 ft)
地形
所在地ギルギット・バルティスタン, パキスタン
所属山脈Panmah Muztagh, カラコルム山脈
登山
初登頂1980年7月18日、大宮求岡野孝司[4]
プロジェクト 山

ラトック山群(Latok group)は、パキスタンカラコルム山脈中央部、パンマー・ムズターク(Panmah Muztagh)にある急峻な岩峰群である。バインター・ブラック(Baintha Brakk)に代表されるオーガ山群の東に位置している。ラトック山群のすぐ南側には、カラコルムの大氷河の一つ、ビアフォー氷河(Biafo Glacier)の支流のバインター・ルクバル氷河(Baintha Lukpar Glacier)が横たわっている。北側には、チョクトイ氷河が走る。

ラトック山群には4つの峰が含まれる。以下にその山群における相対的な位置、高度[1]、初登頂年を列記する。

  • ラトック 1峰、北側中央、7,145m、1979年
  • ラトック 2峰、西、7,108m、1977年
  • ラトック 3峰、東、6,949m、1979年
  • ラトック 4峰、北端、6,456m、1980年

全ての峰は技術的に難しく、世界中の高峰の中でも特に困難な登攀がなされてきた。

ラトック 1峰

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1975年に原真率いる日本山岳会東海支部隊の6名が登頂を目指した。しかし、1峰・3峰間のクーロワールからコルに出ようとしたが突破できずに敗退した。

1979年に高田直樹が率いる日本隊は、1峰・3峰間のクーロワールからバットレス南壁を登攀し垂壁を突破、東稜から初登頂に成功した。最初の登頂隊は重廣恒夫松見親衛、渡辺優であった。続いて3日後、武藤英生奥淳一遠藤甲太が登頂した。

この年1979年にラトック1の登山許可を得たのは、クリス・ボニントン率いるイギリス隊であったが、危険すぎるとしてキャンセルしたので、その許可は日本隊が得ることとなった。

ラトック1の別ルート、高度2,500mの急峻な北稜は、チョクトイ氷河からの未踏のルートとして知られている。最初の試みはアメリカのクライマー4名(ジム・ドニーニ(Jim_Donini)、ミカエル・ケネディ(Michael Kennedy)、ジョージ・ロウ(George Lowe)、ジェフ・ロー(Jeff Lowe))によってなされた。軽量スタイルでのこの登攀は広く賞賛されたが、頂上には達せなかった。ラトック1は初登頂がなされた後も数多くの試みがなされてきたが、未だ成功した者はいない[5]

初登頂記録概要

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出典[6]

隊の名称

ビアフォ/カラコルム登山隊 1979

活動期間

1979年5月〜7月

目的

ラトック1峰初登頂

隊の構成

隊長=高田直樹(43歳)、登攀リーダー=重廣恒夫(31歳)、隊員=松見親衛(32歳)、奥淳一(31歳)、遠藤甲太(30歳)、武藤英生(29歳)、中村達(29歳)、渡辺優(29歳)、城崎英明(22歳)、医師=五藤卓雄(34歳)

行動概要

6月10日バインター・ルクパール氷河上4,600m地点にBC建設。南壁右寄りのピラーにルートを取リ、途中ニケ所の中間デポを設けて6月20日C1(5,500m)建設。6月21日雪崩によりC1が流失した為、以後はBC・C1間の第二デポをC1として使用した。6月30日(5,800m)建設。その後核心部である70mの垂壁を二日間を費して突破し、7月8日C3予定地(6,300m)に到達。C3予定地はテントを張るだけのスペースがなく、ビバークを繰り返すこととする。7月15日南壁上部のアイス・キャップに達し、C3(6,500m)建設。7月17日重廣、松見、渡辺の三隊員により第一回アタックを試みるが、ロープの不足と天候の悪化で引返す。7月19日同じ三名にて再度アタック、新雪と頂上直下のスラブに苦労しながら19時45分初登頂に成功。7月22日第二次隊の三名(武藤、遠藤、奥)と重廣がC3より第二次登頂を果す。

記録映像

朝日新聞社朝日放送の依頼で重廣恒夫が撮影したラトック1峰の登攀記録の16mmフィルムが存在する。重廣によると、現在、フィルムは朝日放送が所有し保管しているとのこと。これが唯一のラトック1峰の頂上から撮影された動画である。そのフィルムを編集し1980年に朝日放送で放送されたドキュメンタリー番組、『未踏峰7145米:ラトックI登頂の記録』(撮影・レポーター:重廣恒夫、聞き手:あべ静江、プロデューサー:合田 実木村英生、編集:越智 稠、制作:朝日放送)がある。

ラトック 2峰

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ラトック2に最初に挑んだのは、1975年の日本の登攀倶楽部 京都隊高田直樹隊長)である。北面の雪壁から北稜コルに達した後、リッジを辿ったが頂上には届かなかった。次いで1977年に、アルツーロ・ベルガマスキに率いられたイタリア隊が、高田隊の反対側のルート、南面のバインター・ルクバル氷河からのルートをとり、初登頂を果たした(これはこの山群での最初の登頂である)。 彼らはこのピークの南東面を登り、E・アミモンタ、T・メイス、R・ベランティーニが登頂した[3]

ラトック2での特筆すべき登頂が最近の1997年になされた。アレキサンダー・フーバー(Alexander Huber)、トーマス・フーバー(Thomas Huber)、トニー・ガッシュ(Toni Gutsch)、コンラッド・アンカーよりなる極めて強力なパーティーは、垂直に切り立った西壁を攀り、頂上に達した。彼らはこのルートのことを、マッキンリーの頂上にエル・キャピタンを置いたようだと表現している。標高6,100mの基部から垂直の岩壁は1,000mであり、垂直登攀の登攀距離はトータル2,200mに達した[7]

ラトック 3峰

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ラトック3の初登頂は1979年になされた。寺西洋司をリーダーとする日本隊は南西稜ルートを攀った。彼らは南西稜をとり、登頂隊は寺西、高見一成森榮、奥平直樹だった[2]。同じルートからの第二登は1988年にイタリア隊によってなされた。実際のところ、これはこの山群における初めての第二登である[5]

ラトック 4峰

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初登頂記録概要

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出典[4]

隊の名称

山学同志会ラトック4峰登山隊

活動期間

1980年7月4日〜30日

目的

ラトック4峰初登頂

隊の構成

隊長=大宮求(31歳)、隊員=岡野孝司(29歳)、半田久(27歳)、田鎖勤(21歳)、医師=野田政樹(27歳)

行動概要

7月4日BC(4,600m)建設。7日C1(5,100m)、8日C2(5,400m)を氷河上に作り、9日、医師を除く4人でアタック。南西壁の氷壁にルートをとり、6,000mでビバーク。10日、不調の2人を残して、大宮、半田が頂上直下40mに達したが、時間切れで断念。13日BCにもどり、1日休養後、15日BC発。16日C1を出発した大宮、岡野は5,700m、6,250mでビバーク後、18日登頂。しかし下降中、5,850mでビバークしようとしてクレバスに転落。大宮は6日目、岡野は9日目に救出された。

脚注

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  1. ^ a b c d e Heights in this article are taken from the map Karakoram, 1:250,000, Swiss Foundation for Alpine Research. A survey under the leadership of Professor Arturo Bergamaschi gives the heights as follows:
    • ラトック I: 7,086 m
    • ラトック II: 7,151 m
    • ラトック III: 6,860 m
    Bergamaschi proposed that the designations of Latok I and Latok II be switched; however, most sources continue to refer to the central peak as Latok I and the western peak as Latok II, as does this article. See the American Alpine Journal, 1998, pp. 320-321. If Professor Bergamaschi's results are correct, then Latok II is the highest of the group, and would have a prominence of approximately 1,481 m; the prominence of Latok I would be greatly reduced.
  2. ^ a b c American Alpine Journal, 1980, 647-648
  3. ^ a b Jill Neate, High Asia: An Illustrated History of the 7000 Metre Peaks, ISBN 0-89886-238-8
  4. ^ a b c 池田常道「ラトック4峰 クレバスからの生還 1980年7月 山学同志会隊の記録」, 岩と雪 78号, 1980, 8-11p 68-71p, 山と渓谷社
  5. ^ a b Andy Fanshawe and Stephen Venables, Himalaya Alpine-Style, Hodder and Stoughton, 1995, ISBN 0-340-64931-3
  6. ^ 高田直樹, 「ラトックI峰遠征を終って」, 1980, 日本山岳会会報「山岳」Vol.75, 95p
  7. ^ American Alpine Journal, 1998, 34-43

参考文献

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