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ラチン県

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ラチン県

Laçın rayonu
県都ラチン(2010年)
県都ラチン(2010年)
北緯39度38分0秒 東経46度33分0秒 / 北緯39.63333度 東経46.55000度 / 39.63333; 46.55000
アゼルバイジャンの旗 アゼルバイジャン
経済地区
アゼルバイジャン語版
キャルバジャル=ラチン経済地区アゼルバイジャン語版
設置 1930年[1]
県都 ラチン英語版
政府
 • 種別
 • 知事 Aqil Nəzərli[2] (新アゼルバイジャン党)
面積
 • 合計 1,835 km2
  [3]
最高標高
3,594[3] m
最低標高
700 m
人口
(2020年)
 • 合計 78,565人
 • 密度 43人/km2
  [4]
等時帯 UTC+4 (アゼルバイジャン時間)
 • 夏時間 なし
ISO 3166コード AZ-LAC
ウェブサイト lachin-ih.gov.az/

ラチン県(ラチンけん、アゼルバイジャン語: Laçın rayonu)は、アゼルバイジャン西部の県。カラバフ英語版の3地方のうち、ザンゲズル地方に含まれる。山岳地帯に位置し、豊かな自然環境と農業、酪農が盛ん。県都はラチン英語版で、首都バクーから陸路で450kmの位置にある[3]

アルメニアと旧ナゴルノ・カラバフ自治州を最短距離で結ぶラチン回廊が県内に存在し、自治州がアルメニアの後押しを受けてアルツァフ共和国(ナゴルノ・カラバフ共和国)として独立を宣言すると、その重要性から1992年にラチンを占領した。以後約28年間、ラチン県全域はアルツァフに実効支配され、アグジャバディ県に県政府が置かれた[1]。2020年の停戦協定で回廊地帯を除く大部分が同年12月1日に返還され、再びアゼルバイジャンの統治下に入った[5][6]

歴史

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古代に建てられたTsitsernavank修道院

ラチンは「誇り」という意味で、これは県都ラチンの近くにある山にちなむ。それまではAbdallarと呼ばれていたが、1924年にラチンが市へ昇格したことを記念して作家Tağı Şahbazi Simurğによって命名された[1]

古代はアルメニア王国アトロパテネ王国の領土の一部として、人が居住していたという。県内には紀元前ごろの芸術作品や、中世に建てられた城や橋といった歴史的建造物が多数存在し、国が認定したもので合計200を超える[1]ラチン県の歴史的建造物の一覧アゼルバイジャン語版)。近代はカラバフ・ハーン国英語版ロシア帝国エリザヴェトポリ県英語版に属した。ソビエト連邦成立後はアゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国の一部となり、1930年にラチン県が設置される。

ソビエト連邦末期、ナゴルノ・カラバフ自治州を巡りアルメニアとアゼルバイジャンとの間に戦争が勃発する(ナゴルノ・カラバフ戦争)。ソ連崩壊後の1992年5月18日、アルメニア軍はラチンに侵攻し支配下に置くことに成功する。やがて県全体が制圧され、その過程で多数の歴史的建造物が被害を受ける。住民であったアゼルバイジャン人は殺害されるか、国内避難民として県外へ避難した。ラチン県は自治州外では初めてとなるアルメニア勢力の占領地となり[7]、その衝撃はアゼルバイジャン国民を刺激し当時大統領であったアヤズ・ムタリボフ英語版が辞任に追い込まれた[8]。県はアルツァフ共和国のカシャタグ地区の一部となり、アルメニア人が多数入植した。

2020年9月末より始まったナゴルノ・カラバフ紛争では、アゼルバイジャンが優位な状態で停戦。停戦協定によって、12月1日にラチン県はアゼルバイジャンへ返還することが決定した[9]。一方でラチン回廊はロシアの平和維持軍の管理下に置かれ、アルメニア・アルツァフ間の交通を監視することになった[10][11]。12月1日に予定通りアゼルバイジャンに返還され、同日中に同国軍が進駐した[6]

行政区画

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1つの市(ラチン)、1つの都市型集落(町、Qayğı)、125の村から成る[3]

住民

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2009年に実施された国勢調査では「ラチン県」の総人口は69,087人であった[3]。民族別人口は以下の通り。

しかし前述のとおり国勢調査が行われた当時は全域がアルツァフの実効支配下にあり、「現地」の統計ではないことを留意する必要がある。なおアルツァフが2005年に実施した国勢調査ではカシャタグ地区の総人口は9,763人。カシャタグ地区はラチン県よりも大きいが、民族内訳ではほぼ全員がアルメニア人となっており、アゼルバイジャン人は0人という結果が出ている[12]

紛争前となる1979年ソ連国勢調査では総人口は47,261人[13]

クルド人

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クルド人はソビエト連邦時代より一定数居住しており、連邦成立後の数年間はクルド人の行政区画であるクルディスタン郡英語版(赤クルディスタンとも)が設置されていた。アルメニアの占領後となる1992年5月20日、70人ほどのクルド人によって「ラチン・クルド人共和国」の建国が宣言された。これは歴史的経緯からクルド人の権利を尊重したアルメニアの提案であったが、ほとんどのクルド人は侵攻の際に殺害されるか県外へ避難しており、共和国の領土と宣言された地域にはごく少数しか残っていなかった。その後アルメニア人が増加していく中、共和国は自然消滅した[14]。この20世紀に2度行われたクルド人の自治計画は、どちらもソビエト連邦・アルメニアによって政治利用されたという見方がある[15]

脚注

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  1. ^ a b c d Tarixi”. ラチン県政府. 2020年11月21日閲覧。 (アゼルバイジャン語)
  2. ^ İcra hakimiyyətinin başçısı”. ラチン県政府. 2020年11月21日閲覧。 (アゼルバイジャン語)
  3. ^ a b c d e Rayon haqqında”. ラチン県政府. 2020年11月21日閲覧。 (アゼルバイジャン語)
  4. ^ Əhalisi”. ラチン県政府. 2020年11月21日閲覧。 (アゼルバイジャン語)
  5. ^ Ethnic Armenian villagers burn houses before Azerbaijan takeover”. アルジャジーラ (2020年11月14日). 2020年11月22日閲覧。 (英語)
  6. ^ a b “アルメニア占領地、返還完了 アゼルバイジャンに―ナゴルノ紛争”. 時事ドットコム. 時事通信社. (2020年12月1日). https://web.archive.org/web/20201203175634/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020120101139&g=int 2020年12月1日閲覧。 
  7. ^ Results of the military aggression of Armenia against the Republic of Azerbaijan”. アゼルバイジャン内務省. 2020年11月21日閲覧。 (英語)
  8. ^ South Caucasus deal echoes plan from 30 years ago”. Al-Monitor (2020年11月13日). 2020年11月22日閲覧。 (英語)
  9. ^ Azerbaijanis celebrate Karabakh deal”. アナドル通信社 (2020年11月10日). 2020年11月22日閲覧。 (英語)
  10. ^ Armenia and Azerbaijan agree peace deal over Nagorno-Karabakh”. OC Media (2020年11月10日). 2020年11月22日閲覧。 (英語)
  11. ^ Live Updates: Russian Peacekeepers Inspecting All Vehicles in Lachin Corridor”. スプートニク (2020年11月19日). 2020年11月22日閲覧。 (英語)
  12. ^ Nagorno-Karabakh - Ethnic composition: 2005 census”. pop-stat.mashke.org. 2020年11月22日閲覧。 (英語)
  13. ^ ЛАЧИНСКИЙ РАЙОН (1979 г.)”. ethno-kavkaz.ru. 2020年11月22日閲覧。 (ロシア語)
  14. ^ Lachin Kurdish Republic is declared”. Kurdish Media.com (2000年11月30日). 2013年10月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月22日閲覧。 (英語)
  15. ^ Former leader of short-lived Soviet Kurdish republic buried in Erbil”. Kurdistan 24 (2019年5月10日). 2020年11月22日閲覧。 (英語)