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ラシッド・タハ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ラシッド・タハ
Rachid Taha
2010年
基本情報
生誕 (1958-09-18) 1958年9月18日
出身地 アルジェリアの旗 アルジェリア オラン
死没 (2018-09-12) 2018年9月12日(59歳没)
ジャンル アラビアンロックライワールドミュージック
職業 シンガーソングライター
担当楽器 ボーカル
活動期間 1980年 - 2018年
レーベル ナイーブ、Knitting Factory、アイランドバークレー
共同作業者 カルト・ド・セジュール
スティーヴ・ヒレッジ
フェミ・クティ
著名使用楽器
ウードダラブッカ
2007年

ラシッド・タハRachid Tahaアラビア語: رشيد طه‎、1958年9月18日 -2018年9月12日)は、フランスの歌手。アルジェリアオランで生まれた。「ラシッド・ター」と表記されることもある。

来歴

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アルジェリア戦争まっただ中の1958年にオランで生まれ、10歳で両親とともにフランスに移住、物心ついてからはリヨン郊外暖房工場の工員や、医学事典訪問販売などをしていた。

18歳で家を出て、移民のたむろするリヨンのナイトクラブに出入りし、1982年にアラブ・ロック・バンド「カルト・ド・セジュール」の歌手としてデビューした。バンド名は「滞在許可証 (グリーンカード)」を意味し、移民の怒りなどをニュー・ウェイヴパンクレゲエファンクなどを盛り込んだロックに乗せて、アラビア語で歌っていた。グループは先鋭的な音楽性で注目を集めたが、3枚のアルバムを残し、1989年に解散した。

1989年のうちにソロ歌手として活動を開始し、1991年にアルバム『バルベス』を発表。続く1993年のセカンド・アルバム『ラシッド・ター』では、カルト・ド・セジュールのアルバム『アラブマニア』以来となるスティーヴ・ヒレッジがプロデュースを担当。ヒレッジは、タハのアルバム9枚で音楽プロデューサーを務めている。

1998年には、パリのベルシー劇場にて1万6千人を集めた一大ライコンサート「アン・ドゥ・トロワ・ソレイユ (1,2,3 Soleils)」を実現させた。このライブは「ライの帝王」ハレド、「ライの小さな王子様」フォーデルと合同で行われ、当日の模様を収めたライブ・アルバムは60万枚以上も売れた[1]

2018年9月12日午前、就寝中に心臓麻痺で死去。59歳没[2]

ディスコグラフィ

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スタジオ・アルバム

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ライブ・アルバム

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コンピレーション・アルバム

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カルト・ド・セジュール

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  • Carte de séjour (1983年) ※EP
  • 『アラブマニア』 - Rhorhomanie (1984年)
  • 2½ (Deux Et Demi) (1986年)

脚注

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  1. ^ ラシッド・タハ『メイド・イン・メディナ』日本盤CD解説
  2. ^ Le Monde: Mort du chanteur Rachid Taha, légende du métissage musical (フランス語)

外部リンク

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