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ラグージー・ボーンスレー2世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ラグージー・ボーンスレー2世
Raghuji Bhonsle II
ボーンスレー家当主
ラグージー・ボーンスレー2世
在位 1788年 - 1816年
別号 マハーラージャ

出生 不詳
死去 1816年3月22日
ナーグプル
子女 パラソージー・ボーンスレー
ダルマージー・ボーンスレー
ラグージー・ボーンスレー3世(養子)
家名 ボーンスレー家
父親 マードージー・ボーンスレー
ジャーノージー・ボーンスレー(養父)
宗教 ヒンドゥー教
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ラグージー・ボーンスレー2世(Raghuji Bhonsle II, 生年不詳 - 1816年3月22日)は、インドマラーター同盟ボーンスレー家の当主(在位:1788年 - 1816年)。

生涯

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即位するまで

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時期は不明であるが、父マードージー・ボーンスレーの兄であるボーンスレー家当主ジャーノージー・ボーンスレーの養子となった。

1772年5月21日、当主ジャーノージーは死亡したが、このときはラグージーが幼かったので、マードージー・ボーンスレーが当主位を継いだ[1]。そのため、マードージーは摂政にすぎなかったとする場合がある[1]

1788年5月19日、当主マードージー・ボーンスレーは死亡したため、ラグージー・ボーンスレー2世が当主位を継承した[1]

更なる領土の拡大

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1795年3月、マラーター王国ニザーム王国との間でカルダーの戦いが行われたが、ラグージーはヴィッタル・バッラールを主将とした軍勢を援軍として送っている[1]

ヴィッタル・バッラールは戦勝に大きく貢献したため、王国から称賛され、ボーンスレー家に更なる領土が舞い込んできた。ニザーム王国からフーシャンガーバードなどの割譲、さらには290万ルピーの貢納金を得た[2]

このように、ラグージーの治世はボーンスレー家の最盛期でもあった[2]。ボーンスレー家の領土は他のマラーター諸侯はもとより、マラーター王国よりも広大な版図を領有していた[2]。また、その領土からは年間1110万ルピーの収入がった[2]

マラーター同盟の内紛

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1795年11月マラーター王国の宰相(ペーシュワーマーダヴ・ラーオ・ナーラーヤンが自殺した際には、ラグージーは自身が宰相であると宣言したが、1796年12月バージー・ラーオ2世が宰相となった。

1797年9月ヤシュワント・ラーオ・ホールカルホールカル家の内紛により ナーグプル領に逃げ込むと、ラグージーはシンディア家の要請により、1798年2月20日に彼を捕らえた。とはいえ、同年4月6日にヤシュワント・ラーオは脱獄してナーグプルを逃げ、本国へと帰還した。

1802年10月、ヤシュワント・ラーオがプネーの戦いで宰相バージー・ラーオ2世を破ると、12月31日に臆病な宰相はイギリスと軍事保護条約バセイン条約を締結し、イギリスの介入を許すこととなった。

第二次マラーター戦争と講和条約の締結

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こうして、1803年にヤシュワント・ラーオはボーンスレー家とシンディア家にイギリスへの戦いのため団結を求めた。ラグージーもイギリスの介入を脅威と考え、同年6月4日にこれらと同盟を締結した。

8月第二次マラーター戦争が勃発したのち、9月11日にシンディア家は庇護下にあったデリーをイギリスに攻撃され、デリーがイギリスのものとなると(デリーの戦い)、ボーンスレー家とシンディア家は連合して戦うようになった。

だが、同月23日にシンディア家とボーンスレー家の連合軍がアッサイェの戦いで敗れ、11月ラスワリーの戦いアルガーオンの戦いでも連合軍は大敗し、12月ガーウィルガルが落とされたとき、ここから講和への流れが強まっていった。

12月17日、ボーンスレー家はイギリスと講和条約デーオガーオン条約を締結し、戦争から真っ先に離脱した。この条約でオリッサカタック、南ベラールなどを領土の約3分の1を割譲させられた[2]

晩年と死

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閲兵するラグージー

その後、同月30日にシンディア家も降伏したが、戦闘はホールカル家によって引き継がれ、互角に持ち込んだところで、12月24日にイギリスと講和条約を結んで戦争を終わらせた。

第二次マラーター戦争後、ボーンスレー家は領土の3分の1をイギリスに割譲したことで、財政窮乏を招いていた。そのため、農民に多くの新しい税を課し、彼らから過酷な収奪を行った。

また、1807年にボーンスレー家はボーパールナワーブの領土を略奪するために軍勢を派遣した[1]。これは戦争中にボーパール側がボーンスレー家からフーシャンガーバードとシヴニーを奪ったことに対する報復でもあった[1]。この攻撃はシンディア家と同盟を組んだ上で行われ、1814年に同盟軍はボーパール城を包囲したが、ボーパール側がイギリスに援助を求めたために撤退を余儀なくされた[1]

1816年3月22日、ラグージーはナーグプルで死亡した[1]

出典・脚注

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関連項目

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