ラグラン (モニター)
艦歴 | |
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発注 | |
起工 | 1914年12月1日 |
進水 | 1915年4月29日 |
就役 | 1915年5月 |
退役 | |
その後 | 1918年1月20日に戦没 |
除籍 | |
性能諸元 | |
排水量 | 6,150トン |
全長 | 334.5 ft (102.0 m) |
全幅 | 90 ft (27 m) |
吃水 | 10.2 ft (3.1 m) |
機関 | |
最大速 | 6ノット (11 km/h) |
乗員 | 198名 |
兵装 | 14インチ砲2門、 12ポンド砲2門、 3ポンド対空砲1門、 2ポンド対空砲1門、 14インチ砲2門(1918年増設) 6インチ砲1門(1918年増設) 12ポンド対空砲2門(1918年増設) |
ラグラン (HMS Raglan) はイギリス海軍の艦艇。アバークロンビー級モニターの一隻。
艦歴
[編集]1914年12月1日起工。1915年4月29日進水。同年6月24日就役。艦名は最初ロバート・E・リー (Robert E Lee) であったが、1915年5月31日にM3となり、同年6月19日にロード・ラグラン (Lord Raglan) となった後、23日にラグランとなった。
就役後、アバークロンビー級モニターは4隻ともガリポリの戦いに投入された。ラグランは1915年6月28日にイギリスを離れ、巡洋艦ダイアナに曳航されてダーダネルス海峡へ向かった。ラグランは7月22日に現地に到着した。
ガリポリの戦いが終わると、アバークロンビー級4隻のうち2隻がイギリスに戻ったが、ラグランとアバークロンビーは地中海に残った。
1918年1月20日、ラグランはモニターM28とともにインブロス島北東部のKusu湾に停泊していた。この日、トルコの巡洋戦艦ヤウズ・スルタン・セリムと巡洋艦ミディッリがダーダネルス海峡から出撃してきた。2隻は発見されること無くKusu湾に接近し、インブロス島北東部で哨戒中であった駆逐艦リザードが2隻を発見した。トルコ艦隊はリザードを追い払った後2隻のモニターに対して攻撃を開始し、ミディッリの第4斉射でラグランに命中弾が出た。この後さらにミディッリから機関室などに命中弾を受け、それからヤウズ・スルタン・セリムの280mm砲弾が命中した。これにより主砲が使用不能となり、艦の放棄が命じられた。攻撃はこの後も続き、ラグランは爆発を起こして着底した。ラグランの戦死者は127人[1]で生存者は93人であった。また、この戦闘ではM28も撃沈された。
脚注
[編集]- ^ Big Gun Monitors : Design, Construction and Operations 1914-1945 38ページ。British Warship Losses in the Ironclad Eraでは戦闘での死者は122人とある。
参考文献
[編集]- Ian Buxton, Big Gun Monitors : Design, Construction and Operations 1914-1945, Seaforth Publishing, 2008, ISBN 978-1-84415-719-8
- David Hepper, British Warship Losses in the Ironclad Era, 1860-1919, Chatham Publishing, 2006, ISBN 1-86176-273-9