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ライシャワーの日本史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ライシャワーの日本史』(原題:Japan: The Story of a Nation)は、かつての在日米国大使、エドウィン・O・ライシャワーによる日本通史。1970年にAlfred A. Knopf社から出版された。(1974, 1981, 1990年に改版。1981年の第3版を國弘正雄が邦訳した [1]。)

アメリカ人に対して日本を紹介する意図で書かれた。 邦訳で400ページほどの、大著とはいえない量で、枝葉末節の事件にとらわれず、日本史の本質をとらえた著作として評価される。

先行著作

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ライシャワーが1945年の国務省時代に執筆し、1946年にKnopf社から出版されたのが "Japan: Past and Present" である。(1953年、1964年に改訂。この第3版を鈴木重吉が邦訳した [2]。)

ライシャワーはケネディ大統領の要請で1961年3月から1966年7月まで駐日大使。 ハーバード大に戻ったあとの1970年に、題を "Japan: The Story of a Nation" に変え、内容も改めて出版したのが、『ライシャワーの日本史』である。

内容

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1 伝統的な日本

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国土と民族
文化的には、日本は中国文明の娘の一人である。しかし日本語は他の言語とかけ離れたものであり、文化の特異性が促進された。
日本語は、現在世界で日常使われている言語の中で最も複雑な表記法を有し、しかも、類縁関係にある近い言語が存在しない孤立した言語なのである。
中国の模倣時代
文字、仏教、中央集権的官僚制、土地所有制度、長方形都市などの中国文明を、平安時代はじめまで取り入れた。
国風文化の発展
かなが発明され、日本独自の文学を生んだ。公地公民制から、免税特権をもつ貴族の荘園制に変化。中央政府の弱体化。
(藤原氏という)特定の一族がこれだけの長期間勢力をもっていて、しかも中央政府の政治力が有効に機能しない状態が長くつづいたのである。
封建社会の発展
武士が台頭し、源頼朝に服属。彼は実質上の日本の支配者となった。
裁定をあおぐ必要のあるもめごとはすべて幕府にもちこまれるようになった。建前上は朝廷の管轄下にある国司や荘園に対する要求からくる争いまでが、鎌倉に裁定を求めてきたのである。
封建制度の成長と変遷
足利時代は政府が弱体化し乱世。領地から確実な収税ができる者が大名となった。
国内の再統一
17世紀の再統一は、大名の支配を基礎とし、大名を中央で統制した。
後期封建性の変容
平和な徳川時代に産業、文化、学問が発展した。
日本は政治の上でこそ封建制度的に分割されていたが、経済的には一つに結ばれていて、その統合された経済にふさわしい経済機構を発展させていたのだった。

2 近代化される日本

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近代国家への移行
ペリーにより開国長州征伐の失敗により幕府は崩壊。新政府の大義名分は天皇親政の復活だった。
理屈の上でこそ、この変革は、古来からの天皇親政を「復活させる」ものだったが、そんなことが実行されたわけではない。
立憲政治と帝国
内閣制、国会などの立憲政治体制が確立。ロシア帝国との戦争に勝ち、台湾と朝鮮を領土化。
経済と政治の発展
憲政擁護運動から原政党内閣へ。
(軍人の寺内正毅が辞職すると)山県は他に方法もなく、ついに本職の政治家を総理大臣に迎えることを認めねばならなかった。彼は策略家で迎合的なの方を選んだ。加藤は無礼で態度が大きく、親英派だと山県の目には映ったからである。
男子普通選挙大正デモクラシー。大戦後の不況。
軍国主義の台頭
1920年代の大正デモクラシーがなぜ1930年代の軍国主義になったのか[注 1]明治憲法にはわざとあいまいに書かれた部分があり、その作成者は、自分たちがそれを補完するつもりだったようだ。

明治憲法こそはまさに曖昧でどうにでも解釈できる文章だった。(中略)

実権を握るのが誰で、首相や、天皇の側近にあって天皇の名で行動する高官を選ぶのがいったい誰なのか、憲法にはまったく明記されていない。
第二次世界大戦
1939年ヨーロッパで第二次世界大戦。日本の拡張政策に対し米国は石油輸出禁止。太平洋戦争
広島に落とされた一発目の原爆は、日本の軍部に降伏止むなしと思わせるために必要であったとの議論も成り立たぬかぎりもない。だが長崎に投下された二発目の原爆に関しては、この種の正当化はぜったいに成り立たない。

3 戦後の日本

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アメリカの占領
アメリカの間接統治。イギリス議会政治型の新憲法。東西冷戦。アメリカ依存の独立。
アメリカは(中略)「大正デモクラシー」の時代に不完全ながらも育成したイギリス型の議会政治制度を生かして改革をはかることにしたが、これはまことに賢明な策であった。
国家の存続
民主主義をめぐって、保守派と革新派の抗争。1955年に自民党社会党の2大政党体制。
民主主義こそ全国民が結束できる思想であり、それはまた、アメリカが唱導する目標でもあった。だが、いったい民主主義とは何かという定義となると、国内のさまざまなグループのあいだで意見は大きく食い違い、互いに不信感をつのらせていた。
戦後の達成
経済復興と種々の要因。都市化と大衆社会。60年安保改定騒動

(安保改定に反対して)6月に入ると、抗議の群集は数十万人にふくれあがった(中略)

しかし、いったん6月19日に新安保の批准が自然承認されてしまうと、その大々的な騒乱も潮が引くようにたちまち静まった。
懐疑の10年
ベトナム戦争。アメリカ批判のなかで沖縄返還。外国との貿易摩擦。ひたむきな工業成長から社会サービスと環境保全へ。
世界のなかの役割
日本は、おそらく世界で最も安定した健全な大国として80年代を迎えた。
以下の文で終わる。
この先どのようなことが起こるのか、誰にもわからなかったが、これらの課題を無事に克服できるか否かは、日本人自身がこれから果たしうる役割に負うところが大きかった。その役割とはどのようなものなのか、それは、いまもなお答えの出ていない問題なのである。

脚注

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注釈

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  1. ^ この問題について、著者は原作 "Japan: past and present" の改版で、記載を充実させた。

出典

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  1. ^ エドウィン・O・ライシャワー 國弘正雄訳 『ライシャワーの日本史』文芸春秋 1986
  2. ^ エドウィン・O・ライシャワー 鈴木重吉訳『日本 過去と現在』 時事通信社 1967

関連項目

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外部リンク

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