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ヨーハン・ガブリエル・ザイドル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヨーハン・ガブリエル・ザイドル
ヨーハン・ガブリエル・ザイドル。アードルフ・ダウターゲによるリトグラフ、1854年
ヨーハン・サイドルの墓標(オーストリア、ウィーン中央墓地特別名誉地区)
オーストリア、グラーツ市にあるGabriel-Seidl-Gasse(道路名標識)

ヨーハン・ガブリエル・ザイドル(Johann Gabriel Seidl, 1804年6月21日 ウィーン - 1875年7月18日)は、オーストリア考古学者、専門誌執筆家、詩人劇作家ハイドン作曲による国歌『オーストリア皇帝讃歌』はフランツ・ヨーゼフ1世の治世になって歌詞が1854年に書き換えられたが、その作詞を担当した。「神よ保ちたまえ、神よ守りたまえ!我らの皇帝、我らの国を!」と始まり、5番では皇帝と皇后に、6番では皇太子に神の祝福あれと祈る言葉が入る。

ザイドルは弁護士の息子であり、ウィーンのアカデミー・ギムナジウム(アカデーミッシェス・ギュムナージウム、1553年設立の中等・高等教育施設、現在は第5学年から第12学年まで)を卒業し、大学で法学を専攻した。1829年より低地シュタイアーマルクのツィリ市(現在はスロヴェニアシュタイエルスカ地方ツェールイェ市)のギムナジウム教師。1840年、ウィーン市の貨幣・メダル・勲章博物館および古代文明博物館(現在はどちらもオーストリア国立美術史博物館)のキュレーターに就任。1856年から1871年までまではハプスブルク家の宝物館(場所的には王宮内だが現在は国立美術史博物館に属する)担当者。公的発表・広報ページがあった『ウィーン新聞』(ヴィーナー・ツァイトゥング)に執筆。 [1]

ザイドルは学問研究部門の執筆を発表する傍ら、多くの詩や物語なども雑誌として発行していた。彼の雑誌『アウローラ』(Aurora、曙光の女神)ではオーストリアの詩人ニコラウス・レーナウの初期の詩作品も発表した。ザイドルの詩は同時代の作曲家によって作曲され、歌曲として残っている。例えばフランツ・シューベルトによる『伝書鳩郵便』(『白鳥の歌』に収録された)、またカール・レーヴェによる『時計』などがある。また、ザイドルの作品には、新高ドイツ語(標準ドイツ語)で書かれた詩以外にも下オーストリア地方の口語で書かれた詩作品が数多くある。1828年から1838年にかけて、4冊の口語詩集が出版された。冊子の題名は Flinserln(ピアス)という。「オーストリア人は小さな金属製のイヤリングをフリンセァルンと呼ぶ。新高ドイツ語話者がフリッターヒェンと呼んでいる装飾品のことだ。いかに無価値な装飾品であれ、見かけは悪くない。簡単な刺繍がそうであるように、この小さな飾りもその効力を見せる。この名称をつつましやかな小品集につければ、ほかの説明は必要無いであろう。」[2]

{Flinserln|https://www.projekt-gutenberg.org/seidl/flinserl/flin1.html}

ザイドルの有名な山歩き・徒歩旅行時の唱え句

傷を癒して元気になりたいなら
陰鬱な家を出て新鮮な空気を吸おう!
君の感じているすべての辛さも
自然は喜んで 君を癒してくれる。
春のひばりが飛び始めても
雪が地面を覆っても
急いで外に出よう!そこには命がある。
外に行けば、君の頭は元気になれる。

ザイドルの墓はウィーン中央墓地の特別名誉地区(グループ0、行1、番号10)にある。 1876年、ウィーン市3区(ラントシュトラーセ)の道のひとつがザイドルにちなんで、ザイドルガッセ(Seidlgasseザイドル通り)と名付けられた。

脚注

[編集]
  1. ^ Rebecca Unterberger: Vom Diarium zur Zeitung: Wiener Zeitung auf litkult1920er.aau.at, verfasst März 2017, redaktionell ergänzt Februar 2019
  2. ^ J. G. Seidl, Flinserln Heft 1