ユゼフ・アレクサンデル・ルボミルスキ
ユゼフ・アレクサンデル・ルボミルスキ Józef Aleksander Lubomirski | |
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出生 |
1751年 ポーランド・リトアニア共和国、キエフ |
死去 |
1817年7月 ロシア帝国、ルフネ |
配偶者 | ルドヴィカ・ソスノフスカ |
子女 | ヘンリク |
家名 | ルボミルスキ家 |
父親 | スタニスワフ・ルボミルスキ |
母親 | ルドヴィカ・ポチェイ |
ユゼフ・アレクサンデル・ルボミルスキ(Józef Aleksander Lubomirski, 1751年 - 1817年7月)は、ポーランド・リトアニア共和国の貴族。ルボミルスキ家の公(侯爵(Fürst)/公爵(książę))。ポーランド軍の陸軍中将、キエフ城代を務めた。
生涯
[編集]スタニスワフ・ルボミルスキ公の次男で[1]、ルフネ(現在のウクライナ領リウネ州リウネ)の所領を相続した。1774年よりロマヌフ(現在のヴィエルコポルスカ県クロトシン郡)の代官となり、1790年にキエフ城代となった。軍隊においても、1786年よりポーランド軍の第12軽騎兵連隊、第5軽騎兵連隊の連隊長を務め、1792年には中将に昇進した。1791年の5月3日憲法成立時には4年議会の国会議員としてこれを支持したが、憲法護持のために戦うことには消極的で、病気と称して参加しようとしなかった。翌1792年の護憲戦争ではカミェニェツ・ポドルスキ(現ウクライナ領フメリニツキー州カームヤネツィ=ポジーリシクィイ)駐屯の第4師団の司令官に着任したものの、軍指揮の能力不足から後退を続けた。
共和国で最も裕福なマグナート層に属しており、開明的でポーランドの産業化にも関心を持ち、コジェツ(現ウクライナ領リウネ州コレツ)で製陶工場を経営していた。フリーメイソンとしての活動に熱心だったほか、聖フーベルト勲章、聖スタニスワフ勲章、白鷲勲章を受章していた。1776年、ルドヴィカ・ソスノフスカ(1751年 - 1836年)と結婚し、間に4男2女の6人の子女をもうけた[1]。妻のルドヴィカは娘時代、タデウシュ・コシチュシュコの恋人であった。長男のヘンリク・ルボミルスキ(1777年 - 1850年)は文化人として活動した。
脚注
[編集]- ^ a b Minakowski, Marek Jerzy. “Józef Aleksander ks. Lubomirski z Lubomierza h. Drużyna (ID: 15.105.503)”. 28 March 2012閲覧。