ヤーコフ・ブトゥイリン
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ヤーコフ・ペトロヴィチ・ブトゥイリン Яков Петрович Бутырин | |
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生年月日 | 1884年 |
出生地 | ロシア帝国ヴォロネジ県ボブロフ郡コズロフカ |
没年月日 | 1919年2月24日 |
死没地 | ロシア社会主義連邦ソビエト共和国テレク州スンジャ部グリ |
出身校 | チフリス鉄道学校 |
所属政党 |
(メンシェヴィキ→) (ロシア社会民主労働党国際派→) ボリシェヴィキ |
人民委員会議議長 | |
在任期間 | 1918年12月9日 - 1919年1月11日 |
人民ソビエト議長 | サイド・ガビエフ[1] |
内務人民委員 | |
在任期間 |
1918年3月9日 - 3月[2] 1918年8月20日 - 1918年[2] |
軍事人民委員 | |
在任期間 | 1918年3月 - 1918年[2] |
食糧人民委員 | |
在任期間 | 1918年8月20日 - 1918年[2] |
在任期間 | 1919年1月11日 - 2月24日 |
ヤーコフ・ペトロヴィチ・ブトゥイリン(ロシア語: Яков Петрович Бутырин、1884年 - 1919年2月24日)は、ロシアの革命家。
生涯
[編集]1884年、ロシア帝国ヴォロネジ県コズロフカ[2]の貧しい農家に生まれ、チフリス鉄道学校で学んだ[3]。1903年からメンシェヴィキ党員となり、ロシア第一革命にも参加してアルハンゲリスク県へ追放されたが、脱走してエカテリノスラフとピャチゴルスクで地下活動に従事した[3]。1917年からはロシア社会民主労働党国際派 (ru) に移り[2]、二月革命後はピャチゴルスク・ソビエト議長を務め、6月にはペトログラードで第1回全ロシア・ソビエト大会 (ru) に出席した[3]。
翌1918年3月からはテレク人民ソビエト共和国の内務人民委員および軍事人民委員を、8月からは再度の内務人民委員と食糧人民委員を務め、12月から翌1919年1月11日まで人民委員会議議長に就いた[2]。同年にはボリシェヴィキ党員となった[2]。1月11日からはテレク州ソビエト議長となったが、在任中の2月24日にグリ (ru) で[2]、チフスにより死去した[3]。
脚注
[編集]- ^ “Терская область - Терская Народная Советская Республика - Терская область”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2017年4月9日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “Бутырин Яков Петрович”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2016年12月24日閲覧。
- ^ a b c d Бутырин // Брасос — Веш. — М. : Советская энциклопедия, 1971. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 4).
公職 | ||
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先代 フリッツ・ブッレ |
人民委員会議議長 1918年12月9日 - 1919年1月11日 |
次代 なし |
先代 なし |
内務人民委員 1918年3月9日 - 3月 |
次代 ユーリー・フィガトネル |
先代 ユーリー・フィガトネル |
内務人民委員 1918年8月20日 - 1918年 |
次代 なし |