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ヤロスラフ・スヴャトスラヴィチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヤロスラフ・スヴャトスラヴィチ
Ярослав Святославич
ムーロム公
チェルニゴフ公
兄ダヴィドの死後、チェルニゴフ公となるヤロスラフ。
在位 ムーロム公1097年 - 1123年1127年 - 1129年
チェルニゴフ公:1123年 - 1127年

出生 1070年代
死去 1129年
ムーロム
埋葬 ムーロム
配偶者 イリーナ
子女 ユーリー
スヴャトスラフ
ロスチスラフ
ミハイル
フョードル
家名 リューリク家
父親 キエフ大公スヴャトスラフ2世
母親 オダ・フォン・バーベンベルク
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ヤロスラフ・スヴャトスラヴィチロシア語: Ярослав Святославич、1070年代 - 1129年)は、キエフ大公スヴャトスラフ2世とオダ(ru)との間の長男である。ムーロム公1097年 - 1123年1127年 - 1129年。チェルニゴフ公:1123年 - 1127年。聖名はパンクラティー、また教会暦ではコンスタンチンと呼ばれる。

生涯

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いくつかの史料によれば、ヤロスラフは母の出身地であるドイツで育ったとされる。年代記への最初の登場は、1096年ルーシ諸公の内戦に関する記述の中においてである[1][2]。ヤロスラフは反ウラジーミル・モノマフ派の、兄弟のオレグの陣営についていた。しかしヤロスラフ・オレグら兄弟はコロクシャ川の会戦(ru)で、モノマフの子のムスチスラフヴャチェスラフポロヴェツ族の軍に破れた。敗北の後ヤロスラフはムーロムへ逃れ、ムスチスラフらと和平条約を結んだ。

その後の1097年リューベチ諸公会議によって、ヤロスラフら兄弟はチェルニゴフ公国領を世襲領地とすることが取り決められた。チェルニゴフ公国は3つの分領公国に分割され、兄弟のうちダヴィドチェルニゴフを、オレグがノヴゴロド・セヴェルスキーを領有し、もっとも年少のヤロスラフは、遠方で価値の低いムーロムリャザン(当時はリャザンもムーロム公国領の一部だった)を受領した。

1101年にポロヴェツ族と和平条約を締結、1103年3月4日にはモルドヴァ族に敗れた[3]

1123年に兄のダヴィドが死ぬまで、ヤロスラフはムーロム公国を統治し、兄の死後チェルニゴフへと移った。しかし1127年、甥のフセヴォロドによってチェルニゴフから追放された。このときキエフ大公位にあったモノマフの子のムスチスラフ(上記のムスチスラフ。キエフ大公ムスチスラフ1世)は、兄弟のペレヤスラヴリ公ヤロポルクと連携して、チェルニゴフをヤロスラフに返還するよう要求し始めた。これは、ムスチスラフら兄弟(ウラジーミル・モノマフの子)と、フセヴォロドら兄弟(オレグ・スヴャトスラヴィチ(ru)の子)とが対立していたためである。ムスチスラフの行動に対し、フセヴォロドはキエフの貴族(ボヤーレ)層を買収して対抗した。この膠着状況が冬まで続いたため、ヤロスラフはムーロムからキエフへ行き、ムスチスラフをせきたて、更なる援助を求めた。結局、ムスチスラフとフセヴォロドは和解し、ヤロスラフは再びムーロムへと派遣され、その地で没した。

ヤロスラフは1547年、マカリエフ聖堂(ru)において、息子たちとともに列聖された。「聖なるブラゴヴェルヌィー(ru)クニャージ、ムーロムのヤロスラフ」[注 1]としてキリスト教徒から崇拝されている[4]記憶日ユリウス暦5月21日(グレゴリオ暦6月3日)。

妻子

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妻の名はイリーナであり、いくつかのイコンに描かれている。埋葬地はムーロムの生神女福音大聖堂である。子には以下の人物がいる。

脚注

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注釈

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  1. ^ 「ブラゴヴェルヌィー」は列聖された君主の意。「クニャージ」はルーシの支配者が帯びた称号で、「公」と訳される。

出典

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  1. ^ Лаврентьевская летопись //Полное собрание русских летописей— Л., 1927. — Т. 1. — Стб. 238.
  2. ^ Ипатьевская летопись//Полное собрание русских летописей— СПб., 1908. — Т. 2. — Стб. 228.
  3. ^ Повесть временных лет
  4. ^ Д. И. Иловайский

参考文献

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先代
イジャスラフ・ウラジミロヴィチ
ムーロム公
1097年 - 1123年
次代
フセヴォロド・ダヴィドヴィチ
先代
ダヴィド・スヴャトスラヴィチ
チェルニゴフ公
1123年 - 1127年
次代
フセヴォロド2世
先代
フセヴォロド・ダヴィドヴィチ
ムーロム公
1127年 - 1129年
次代
ユーリー・ヤロスラヴィチ