ヤブ・ガンボ
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ヤブ・ガンボ(Yabu Γambo、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えたタングート人将軍の一人。『元史』などの漢文史料では也蒲甘卜(yĕpúgānbŭ)と記される。「ガンボ(Γambo)」とはチベット系の言語(タングート語)に由来する名前で、「完成した者、覚者(sgam-po)」を意味する[1]。
概要
[編集]ヤブ・ガンボは1221年に部下を率いてモンゴル帝国の創始者チンギス・カンに帰順し、モンゴル軍に加わった。チンギス・カンの命により同郷のタングート人を率い、左翼万人隊長のムカリ麾下に入ったが、病により早くに亡くなった。
ヤブ・ガンボの死後、息子のアンギルが後を継いで軍を率い、南宋征服、ナヤン・カダアンの乱鎮圧などに従軍し功績を挙げた[2]。
脚注
[編集]- ^ 村上1970,194頁
- ^ 『元史』巻123列伝10也蒲甘卜伝,「也蒲甘卜、唐兀氏。歳辛巳、率衆帰太祖、隷蒙古軍籍。奉旨同所管河西人、従木華黎出征、以疾卒。子昂吉児襲領其軍、征諸国有功。至元六年、授金符千戸、従征蘄・黄・安慶等処。九年、易虎符、陞信陽万戸、従平章阿朮南征、又有功、歴淮西道宣慰使・参知政事・都元帥・廬州蒙古漢軍万戸府達魯花赤・行省左丞相・尚書左丞、積官龍虎衛上将軍。二十一年、携其子昂阿禿入見。世祖命昂阿禿充速古児赤。二十四年、随駕征乃顔有功、奉旨代其父職。二十六年、授廬州蒙古漢軍万戸府達魯花赤。大徳六年、領兵討宋隆済等、以功受上賞。還鎮廬州、以私財築室一百二十餘間、以居軍士之貧者、省台以其事聞、特命升其秩、以金束帯賜之。泰定四年卒。昂阿禿之弟暗普、由速古児赤授金符・唐兀禿魯花千戸、後改授海北海南道廉訪使」
参考文献
[編集]- 村上正二訳注『モンゴル秘史 1巻』平凡社、1970年
- 『元史』巻123列伝10