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ヤフヤー・ブン・シャラフ・ナワウィー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「ヤフヤー・ブン・シャラフ・(アン)ナワウィー」の名前をアラビア文字で装飾的に書いた書道作品

アブ・ザカリア・ヤフヤー・ブン・シャラフ・アル=ナワウィーアラビア語: أبو زكريا يحيى بن شرف النووي‎、1233年 - 1277年)は、13世紀シリアイスラーム法学者ハディース学者[1]ダマスクスに近いナワー村に生まれ、18歳よりダマスクスで学究の日々を送った(#生涯)。ナワウィーは、スンナ派シャーフィイー派の学統に連なり、同学派の見解に沿った法的判断の手引書の著作などで知られるが、40あまりの伝承を集めたナワウィーの注解付きハディース集『アルバイーン・ナワウィーヤ英語版』は学派の違いを超えて広くムスリムに受容されている(#著作)。

生涯

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『ヒズブル・アーリフ』حزب العارف‎ というナワウィーの祈祷書。1739年制作の装飾写本メトロポリタン美術館蔵。

「ナワウィー」という呼び名は出身地の村の名前から派生したニスバで、クンヤとイスムとナサブは、アブー・ザカリーヤー・ヤフヤー・ブン・シャラフという[1][2]。ナワウィーにはムヒッディーンのラカブがあり、敬意や尊敬を込めてムヒッディーン・ナワウィー[3]、イマーム・ナワウィー[2]と呼ばれることもある。

イブン・アッタールアラビア語版(1256-1324)というナワウィーの弟子で、ナワウィーより一世代下のダマスクスのウラマーが、ナワウィーの伝記(Tuḥfat aṭ-ṭālibīn fī tarjamat al-’imām Muḥyiddīn)を書いている[4]。イブン・アッタールによると、ナワウィーはヒジュラ暦631年ムハッラム月(グレゴリオ暦1233年10月)に、ダマスカスの南にあるナワー村で生まれた[4]

ナワウィーは18歳のときダマスクスへ行き、以後、そこで学究の日々を送った[1]。1253年にはメッカへの巡礼(ハッジ)を果たした[1]。以後、15年間ほどの間、ムフティーカーディーなどの公職に就くことなく市井のウラマーであったが、1267年にアブー・シャーマ Abu Shāma という人物の跡を継いでアシュラフィーヤ・ハディース学院アラビア語版の長になった[1]

旱魃の続いたある年、ナワウィーはダマスクスの街を代表して、マムルーク朝スルターンルクヌッディーン・バイバルスに税負担の軽減を求めた[3]。バイバルスはこれに怒り、ナワウィーをダマスクスから追放させた[3]。バイバルスはその後まもなくして毒殺され、ナワウィーはダマスクスに戻った。

ナワウィーはヒジュラ暦676年ラジャブ月24日の水曜日に、故郷のナワー村の実家で亡くなった[1][2][4]。没年はグレゴリオ暦では1277年にあたる[2]。イブン・アッタールなど複数の史料には、ナワウィーが亡くなったという報せが翌木曜日中にダマスクスに届き、さらに翌日のウマイヤ・モスクにおける金曜礼拝では深い悲しみの中、ナワウィーに祈りが捧げられたことが記載されている[4]

著作

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ダブリンチェスター・ビーティ図書館が所蔵する『アルバイーン・ナワウィーヤ』の手写本の一つ

ナワウィーの著作は少なくとも50点以上はある。代表的なものの一つ、『ミンハージュル・ターリビーン』(Minhaj al-Talibin, منهاج الطالبين وعمدة المفتين في فقه الإمام الشافعي‎)は、シャーフィイー派の見解に沿ったイスラーム法学入門書の古典とされている[2]

『マジュムー・シャルフル・ムハッザブ』(al-Majmu' sharh al-Muhadhdhab المجموع شرح المهذب‎)は、シャーフィイー派の見解に基づいて法的判断を行うための手引書であり、1899年にフランス語訳つき校定本が出版されている[1]

『リヤード・サーリヒーン』(Riyadh as-Saaliheen, رياض الصالحين‎, 公正の庭英語版)は、テーマ別に聖典クルアーンの章句を引用し、それに関連するハディースを示し、注釈を加えた実用的な宗教書である[5]

アルバイーン・ナワウィーヤ英語版』(al-arbaʿīn al-nawawiyya, الأربعون النووية‎)は、40あまりの伝承を集めた注解付きハディース集である[1]。本書は法学派の違いを超えて広くムスリムに受容されており、本書自体への注釈書もおびただしいほどの数、存在する[1]。日本語訳も存在し、黒田壽郎による翻訳で1980年にイスラミックセンター・ジャパンから『40のハディース』という書名で出版された[6]。日本語訳者黒田壽郎によると『アルバイーン・ナワウィーヤ』は、全部で42個という僅かな数の伝承をもとにイスラームの総合的な理解が得られるように意図されている[6]

思想

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画像外部リンク
『ミンハージュル・ターリビーン』の書影

ナワウィーの人となりについては「深い知識があり、世俗を避け、多神教(munkar)を禁じ一神教(maᶜrūf)を勧めることをすべてのムスリムに奨励する、信仰の導き手」であったという評がある[2]

ナワウィーはアシュアリー派神学を信奉し、『クルアーン』を解釈する際は信仰的側面を強調した[2]

ナワウィーはまた、スルターン・バイバルスとの対立に見られるように、ときの為政者に妥協することなく慣行(スンナ)を重視する聖戦(ジハード)を行うことを唱道した[3]。ナワウィーの政治思想は、ダマスクスのウマイヤ・モスクで論陣を張ったスンナ派の「活動家的イマーム」(: activist imams)へと受け継がれていく[3]イブン・タイミーヤ(1263-1328)はそうしたイマームの代表的な人物である[3]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i Thatcher, Griffithes Wheeler (1911). "Nawāwī" . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 19 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 318.
  2. ^ a b c d e f g Ludwig W. Adamec, ed. (2009). "NAWAWI, YAHYA IBN SHARAF AL-". Historical Dictionary of Islam. Scarecrow Press. pp. 238–239. ISBN 0810861615
  3. ^ a b c d e f Dekmejian, R. Hrair (1995). Islam in Revolution: Fundamentalism in the Arab World Contemporary issues in the Middle East (illustrated, reprint, revised ed.). Syracuse University Press. ISBN 0815626355. https://books.google.co.jp/books?id=QeVs-4lWeUIC&pg=PAPA38 
  4. ^ a b c d Ibn al-ᶜAṭṭār. “生涯”. Tuḥfat aṭ-ṭālibīn fī tarjamat al-’imām Muḥyiddīn 
  5. ^ Brown, Jonathan A. C. (2010). Hadith. Oxford Bibliographies Online Research Guide. Oxford University Press. p. 14. https://books.google.co.jp/books?id=iZGeSenYA3QC 
  6. ^ a b 40 Hadith -40のハディース”. 40hadith.com. 2018年12月19日閲覧。

外部リンク

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